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礼拝メッセージ 2014年3月2日
このメッセージは「ヨハネの黙示録」の連続講解説教の一部です。
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
ヨハネの黙示録 20章11節〜15節「死から生へ」 2014.3.2  
  〈聖書(新共同訳)〉
20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、
その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを
   見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の
  書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行い
  いに応じて裁かれた。
20:13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、
  彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
20:14 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
 
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<メッセージ>
●幻
ヨハネが見ている幻は、いよいよクライマックスにさしかかっています。
ヨハネは主の日に、幻を見ました。
主の日の礼拝において幻が示されたのです。
 
この幻を文章で書き留めたところ、22章にまで及ぶ長い文章になりました。
私たちはそれを毎週の礼拝で9ヶ月かかって読んできたのでした。
けれどもヨハネが幻を見ていた実際の時間はそれほど長くはなかったでしょう。
かかった時間は何分という単位か、長くて何時間という長さだったと思われます。
 
次々に映像のように画面が展開されていったのでした。 
「わたしは見た」という言葉が繰り返し繰り返し出てきます。
そこで画面が切り替わったということです。
●今日の場面
今日の箇所で、また画面が切り替わります。
天も地も、大きな白い玉座に座っておられる神様の前から逃げて行き、行方が分から
なくなりました。
そして21章になって、また新たな場面になります。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」とあります。
いよいよクライマックスです。
 
今日の場面は、その前の出来事に、何もかもに決着がつく場面が描かれています。
●神の前に立たされる
死者たちが、大きな者も小さな者も、神様の前に立たされます。
海は、その中にいた死者を外に出しました。
死と陰府も、その中にいた死者を出しました。
こうしてすべての人達が神様の前に立たされるのです。
●裁き
裁きが行なわれます。
ひとりひとりが神様によって裁かれます。
何によって裁かれるかというと、その人の行いに応じて裁かれるのです。
その行いはいくつかの書物に記されています。
生まれてから死ぬまでの一切のことが書かれているのです。
したこと、考えたこと、心に浮かんだこと、すべてが克明に書かれています。
するべきだったのにしなかったことも書かれています。
一生の間のことがすべて一つ残らずあからさまにされたら、自分は正しいということが
できるでしょうか。
 
人はその人の行動を見て、立派だと誉めるかもしれまでん。
しかし心の奥底はどうでしょうか。
誉められていい気持になっている自分がいるのではありませんか。
人には優しく明るく接していても、心の中はねたみ、憎しみ、恐れ、怒り、嫉妬、不安、
などなど、どろどろとした思いで一杯です。
自分は正しいと思う、そして心の内で人を裁いている、そういう姿も書かれています。
その上自分で気づいていない罪や誤りまでも記されています。
 
これらの書が開かれたとき、誰が罪なしと言ってもらえるでしょうか。
誰ひとりいません。
すべての人に有罪が宣告されるのです。
●正しい者はいない
ローマの信徒への手紙3章には
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
と書かれています。
これは詩編14編からの言葉です。
詩編の方にはこのように書かれています。
「神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」 
神様の前に罪なしと言われる人は一人もいないのです。
すべての人は滅ぼされるしかない存在です。
たくさんの書物が開かれて、最後の審判が下されるとき、誰ひとりとして、第2の死を
免れることは出来ません。
●命の書
まさに判決が下されようとするその時、もう一つの書が開かれます。
命の書です。
この命の書には名前が書かれています。
この書に名前が書かれていれば、その人は第2の死を免れることが出来るのです。
まさに永遠の命に生かされるか、永遠の滅びに渡されるかの瀬戸際です。
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●名が書かれているか
わたしの名前は書かれているだろうか。
ちょうど入試の合格発表のようです。
担当者が巻物を持って掲示板に向かいます。
開かれていく巻物に自分の名が記されているか固唾をのんで見守ります。
今は名前ではなく受験番号で発表されます。
あった!自分の番号を見つけて大喜びする人と、番号がなくてがっくりする人にわかれます。
自分の名が命の書に書かれているか。
それは命の書が開かれるその時にならないとわかりません。
●キリストが書かれる
でも私たちは希望を持つことが出来ます。
なぜなら命の書に名前を書くのはキリストであられるからです。
3章5節には
「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの
前で公に言い表す。」
とありました
「わたし」とはイエス・キリストです。
屠られた小羊キリスト、十字架にかかられたキリストです。
キリストが命の書に名を記してくださるのです。
「これはわたしの者」と言って名を書いてくださいます。
 
私たちは自分の行いによっては名を記していただけない者であることを良く知っています。
信仰を持っているから自分は大丈夫、絶対名前が記されている、と言うことができない
のです。
信仰を持ちながらなお罪を犯す者であることを知っているからです。
人は皆罪を犯しています。
誰ひとり、名を記されるに価する者はいないのです。
けれどもキリストは十字架にかかって罪を贖ってくださいました。
すべての罪を贖ってくださったキリストが「これはわたしの者」と言って名を書いてくだ
さるのです。
ですから自分の名が命の書に記されていると信じることができます。
キリストの十字架の贖いは完全であることを思う時、命の書に名前がもれている人は
いないのではないかと思います。
ローマの信徒への手紙3章のことばが聞こえてきます。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスに
よる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
●言ってはならない
本当のことは命の書が開かれるその時に初めてはっきりします。 
ですから今その時を待ち望みながら生きている私たちは、
「あなたは名が記されていない、あなたは第2の死に入れられる」
 と言ってはなりません。
そう言うことは自分がキリストに代わって断罪していることになります。
人はどうしてキリストになりかわってそんなことを言うことができるでしょうか。
命の書に名を記されるのはキリストただおひとりです。
このお方は、すべての人の罪を負って十字架につき、すべての人の罪を贖われたのです。
ここに私たちの大きな希望があります。
●死の死
 そして私たちは究極の希望を見させていただいています。
14節に
「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」
と記されているのです。
死が死ぬのです。
死がなくなるのです。
ヘブライ人への手紙2章は、キリストが肉を持ってこの世に来られたことについて
「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の
ために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
と語っています。
本当に私たち人間は、生きているあいだ中、死の恐怖の奴隷になっています。
病気や事件、事故、災害が我が身に襲ってきたとき、恐ろしいと恐怖にとりつかれる
のは、その先に死を見るからです。
すべての命あるもの、動物も植物も死を迎えますが、動物たちは死ぬということを知り
ません。
人間だけが、死ぬということを知るようになったのでした。
そのために、生きていながら、死に支配されるようになりました。
生きているあいだじゅう、死の恐怖があるのです。
多くの人達は、死を見ないように、死を考えないように目をそらせながら生きています。
すべての恐怖の根源は死にあると言えます。
その死が死ぬのです。
死がなくなるのです。
21章には
「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」
と記されています。
私たちは今はまだ死が支配している世に生きています。
けれども、死が死ぬときが来る、その約束をいただいているのです。
●キリストの復活
実は、この新しい時はもうすでに、この世に入り込んでいます。
キリストの復活において、この新しい時は始まっているのです。
使徒パウロはイエス・キリストが十字架につかれ復活された時と同じ時間にこの世に
生を受けていた人物です。
人として生きられたイエス様に、実際に会ったことはなかったかもしれません。しかし同じ
時を生きていた人です。
キリストの復活の後まもなく教会ができました。
そのごく始めにパウロはキリストによってキリストの使徒とされました。
パウロの時代には、まだ黙示録は書かれていません。
このパウロがコリントの信徒へあてた手紙の中で、死者の復活を記しています。
コリントの信徒への手紙一15章です。
「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。・・・しかし、実際、キリスト
は死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・・最後の敵として、
死が滅ぼされます。・・・この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死な
ないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ
込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
私たちはキリストの復活によってすでに死の死を見ています。
そして黙示録の幻は、今私たちがキリストにおいて見ている死の死が、やがて全地に、
すべての人々において起こることを告げているのです。
●幻はキリストによって
黙示録の幻を見させてくださっているのは、キリストです。
 
黙示録の最初、封印された巻物を開いたのは屠られた小羊キリストでした。
天にも地にも地の下にもこの巻物を開くことが出来る者、見ることのできる者は、一人も
いませんでした。
キリストが私たちに巻物を見させてくださっているのです。
ここまでずっと幻によって示してくださっていたのはキリストです。
ですから死がなくなる時が来ることは確かな約束です。
●約束に生きる
先ほどのコリントの信徒への手紙一15章には、続いてこのように書かれています。
「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、
主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄に
ならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
●結語
死から生へ
確かに起こるこの約束の中で、私たちは今生きています。
私たちもパウロと共に言います。
「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
キリストの勝利を感謝します。
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