トップページ 教会紹介 集会案内 周辺地図 こどもの教会 お知らせ リンク
メッセージ
今までのメッセージはこちらから
礼拝メッセージ 2025年 11月16日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
フィリピの信徒への手紙 3章1〜11節 キリストを知るすばらしさ
〈聖書(新共同訳)〉
3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度
書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安
全なことなのです。
3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。
切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは
神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからで
す。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほ
かに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ
ミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサ
イ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのな
い者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえ
に損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすば
らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしは
すべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生
  じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与
えられる義があります。
3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかっ
て、その死の姿にあやかりながら、
3:11  何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
ページの上に戻る
<メッセージ>
●福音のかなめ
イエス・キリストの福音のかなめ・中心点は、ローマの信徒への手紙3章24節
にあります。
「3:23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義と
されるのです。」
先ほど招詞で聞きました。
●招詞
礼拝における招詞は、神様が人々を礼拝に招く神の言葉です。
司会者は単に聖書の言葉を読むのではなく、神様の権威をいただいて宣言する
のです。
聞く者は軽々しく聞いてはなりません。
神様が語っておられます。
けさ、神様は宣言されます。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっているが、ただキリスト・
イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる。」
義とは「神様と正しい関係にある」「救われる」という意味です。
無償で、価なしに、無条件で義とされるのです。
●この一事を
聖書は膨大な書物です。
色々な事が書いてあります。
心に響く言葉があります。
苦しい時、悲しい時、不安でたまらない時、御言葉に支えられたことがあ
るでしょう。
ぐるぐると自分の頭の中で思い巡らしている時、御言葉によってハッと気付
かされたこともあるでしょう。
聖書の言葉は、私達が生き、生活していく中で道を示してくれます。
一方、聖書に書いてあることが、さっぱり分からないこともあります。
読んでいても、頭にも心にも入ってこないことがあるでしょう。
何も分からなくてもいい。
ただこの一言だけを、覚えていて欲しいです。
「3:24キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で
義とされるのです。」
 
聖書の全ては、この一事を告げているのです。
何を語るにしても、決してはずしてはならない聖書のかなめです。
パウロに開示された
神様はパウロという一人の人物を選んで、キリストの福音の本質を開示さ
れました。
イエス様の十字架の出来事は何だったのか。
イエス様の十字架によって何が起こったのかを、示されたのです。
 
●パウロの生い立ち 
パウロの生い立ちが今日の箇所に記されています。
「3:5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、
ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関し
てはファリサイ派の一員、
3:6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころの
ない者でした。」
彼は由緒正しい家系に生まれました。
人は自分がどの家に生まれるか、決めることが出来ません。
パウロは生粋のユダヤ人として生を受けたのでした。
どのような環境の下に生まれたにせよ、人は自分の人生を歩み始めます。
どう生きるかは、その人自身に負うところが大きいです。
パウロは生粋のユダヤ人として生きることに全力を注いだのでした。
律法を熱心に学び、律法に従って生きるように細心の注意を払い、自らを
打ちたたいて正しい道を歩んできたのです。
「律法の義については非のうちどころのない者でした。」
と自ら語っています。
律法を厳格に守って生きる熱心さが、教会を迫害することになっていきま
した。
●損失とみなす
そのパウロが
「3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストの
ゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすば
らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わた
しはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
と言っています。
 
この世で生きるために有利なものを手に入れることが出来なかったから、そ
んなものは要らない、と負け惜しみを言っているのではありません。
開き直って強がっているのではありません。
手に入れられない自分を納得させるために、言っているのではありません。 
自分が手に入れることができないでいるものを、そんなものは要らない、
と言っても、誰が感銘を受けるでしょうか。
その言葉には何の力もありません。
しかしパウロは全てを持っていたのです。
そのすべてを捨てたのです。
だから彼の言葉には力があるのです。
どれほどキリストを知ることが素晴らしいかが伝わってくるのです。
パウロがそれまで持っていたものは、この世で生きていくのに非常に価値のあ
るものでした。
その価値あるものが彼からなくなったわけではありません。
むしろそういう彼だからこそ、神様は彼を選ばれたのです。
彼にキリストの福音の神髄を示されました。
彼は、キリストのあまりのすばらしさに、この世で価値のあるものに気を止め
なくなりました。
それらがどうでもよくなったのです。
 ページの上に戻る
●福音に立つ
神様から、キリストの福音の神髄を示されたパウロです。
パウロは揺らぎません。
人から何と言われようとも、迫害されようとも、あらゆる苦しみを受けながら
も、彼はただ一点、キリストの福音に立ち続けます。
今日の箇所でも
「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、
信仰に基づいて神から与えられる義があります。」
と言っています。
●パウロの願い
パウロは、人々がキリストの福音のかなめ、中心点に立ち続けて欲しいと、ど
んなに願っていたことでしょうか。
ひとつひとつの教会を心に留めて、ある時は厳しく、ある時は涙を流しながら、
またある時は喜びをこめて手紙を書き送っています。
●フィリピの教会に
フィリピの教会には、
「3:2あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。
切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」 
と書き送っています。
「あの犬ども」「よこしまな働き手たち」「割礼をもつ者達」と激しい言葉を
使っています。
3種類の人たちがいたわけではなく、同じ人のことを重ねて表現しているのです。
 
日本語訳では「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」と別々の言
葉で訳していますが、原文では同じ一つの言葉です。
ブレポーという言葉で「見る」という言葉です。
キリストの福音の中心から離れさせる人たちは、教会の中にいる人たちでした。
キリストを信じている人達だったのです。
割礼を受けること、律法を行うことも必要だと言い出す人たちが出て来ました。
同じキリストを信じる人達の言うことですから、そうなのかと思ってしまう。
ですから、良く見なくてはならないのです。
 
●血に染みこんでいるもの
割礼も必要だと言いだしたのは、ユダヤ教からキリスト教になった人たちです。
ユダヤ人達は先祖代々、生まれて八日目に割礼を受け、律法を守って生活して
きたのでした。
ユダヤ教の伝統、生き方、価値観が血の中に染みこんでいるのです。
その様に生きて来て、ある時キリストに出会う。
キリストを信じて生きる者に変えられました。
それでも生まれてこの方生きて来た価値観がどこかに潜んでいるのです。
キリストの救いを否定しているわけではありません。
ほんの少し、身に染みこんでいる考えを付け足しただけです。
 
そのことが、どれほど大きな過ちであるか。
パウロは「犬ども」「よこしまな働き手」と呼ぶのです。
 
●私達も言われている
キリストの福音のかなめ、中心点からずれてはなりません。
 
「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」とパウロは私達にも
言います。
私達はある時キリストを知りました。
イエス・キリストの十字架の贖いによって、何の代価も払うことなく、ただで、
無条件で救われていることを知ったのです。
これまで自分が大切にしてきた考え方、習慣、価値観が、キリストのすばらし
さを知って覆されました。
自分を縛ってきたあらゆるものから解放されたのでした。
それでも、これまで生きて来て身に着けた価値観や考え方、習慣、世の慣わし
が心の中や生活のどこかに潜んでいるのです。
キリストを知った後もそれらに引きずられる自分がいます。
そういうものを、いつのまにか信仰に付け加えるのです。
キリストを信じることをやめたわけではありません。
だからそれが問題だと感じないのです。
パウロは今日私達にキリストの福音のかなめ、中心点に立ち返るようにと、
厳しく、はげしく迫っています。
 
●復活の希望
福音のかなめ・中心点に立つパウロは、復活の希望を語ります。
「3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、
その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
と言います。
パウロが一番最初に会ったキリストは復活のキリストでした。
それは、彼が教会を迫害するためにダマスコに向かっていた時のことでした。
突然、天からの光が彼の周りを照らしました。
地に倒れた彼は、呼びかける声を聞きました。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」
「主よ、あなたはどなたですか」
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
キリストを知ることと、復活の力を知ることが同時に起こったのです。
 
キリストを知るということは、頭の中で理解するということではありません。
キリストを知るということは、キリストを復活させられた神様の力の働きの中
で生きるということです。
神の身分でありながら人として来られたキリスト、イエス様。
私達と同じ苦しみを苦しまれ、私達と同じく死なれました。
そのイエス様を神様は復活されたのです。
ですから人もまた神様の復活の力をいただくことが出来ることが、パウロの希
望であり私達の希望です。
パウロは「3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
と言います。
何もかも分かっている、と言うのではない。
「達したい」と言います。
信仰とは、動的なものです。
足をすくわれることがあっても、先に向かって生きて行くのです。
日々の生活の中での苦しみ、死を味わうことの中に、すでにキリストを復活
させられた神様の力が働いていることを体験するのです。
●結語
私達もキリストの福音の中心点に立って「3:11 何とかして死者の中からの
復活に達したいのです。」と願いながら、今、この時を生きていきます。
ページの上に戻る

トップページ 教会紹介 集会案内 周辺地図 こどもの教会 お知らせ リンク メッセージ゙
             今までのメッセージはこちらから