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礼拝メッセージ 2022年 2月20日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
ガラテヤの信徒への手紙 3章21〜29節 「キリストに結ばれて」
〈聖書(新共同訳)〉
3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうで
はない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、
確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、
神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられ
るようになるためでした。
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が
啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったので
す。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の
下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なの
です。
3:27 バプテスマ(洗礼)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリ
ストを着ているからです。
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者
もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて
一つだからです。
3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラ
  ハムの子孫であり、約束による相続人です。
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<メッセージ>
●ガラテヤの信徒への手紙
礼拝で、ガラテヤの信徒への手紙を読み進めています。
この手紙で、パウロが言葉を重ねて語っていることは、人が神様から義とされ
ることはどのようにして起こるのか、ということです。
 
義とされるという言葉は、人と神様が正しい関係になっていることを意味して
います。 
神様から「あなたはOKだ」と言っていただくと言っても良いでしょう。 
●行いによってと思っている
私達はごく自然に、わたしが良いことをすれば神様に喜んでもらえる、正しい
行いをすれば神様に誉めてもられる、「あなたはOKだ」と言ってもらえる、神
様から義とされる、と思っているのではないでしょうか。
これは裏返せば、悪いことをすると罰が当たる、と思っているということです。
 
●キリストが示されている
そう思っている私達の目の前に、けさ、キリストが示されています。
わたしが義とされる―神様との正しい関係に入れるのは、わたしの行いによる
のではない、キリストの真実によるのだというのです。
●基準
私達はこれまで、良い行いをしよう、正しく生きていこうと、と努めてきたので
した。
良いとか正しいと言うとき、そこには基準になるものがあります。
法律や倫理、律法が基準です。
法律を守っているかどうか、倫理道徳の規準にかなっているかどうか、律法に
従っているかどうかで、正しいか正しくないかが決められます。
 
●欠けているもの
聖書には、イエス様のもとに走り寄りひざまずいて尋ねた人とイエス様のやり
とりが記されています。
その人はイエス様に尋ねました。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
イエス様は言われました。
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』とい
う掟をあなたは知っているはずだ。」
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」
するとイエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。
「あなたに欠けているものが一つある。」
イエス様が指摘された「欠けているもの」―それは彼がどうしても出来ないこ
とでした。
この人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
と尋ねたのは、イエス様から「あなたはOKだ」と言ってもらうためだったので
しょうか。
彼は、自分は律法を皆守ってきた、と思っているからです。
それとも、律法を子供の頃からずっと守ってきた、でもそれで永遠の命を受け
継ぐことが出来るとはどうも思えない、何かが足りないと感じている、ほかに
何をすれば完璧になれるだろうか、とイエス様に尋ねたのでしょうか。
いずれにしても、イエス様の答えは彼の意に反するものでした。
「あなたに欠けているものが一つある。」
それは彼にはどうしても出来ないことだったのです。
 
●律法が教える
そうなのです。
私達はどんなに正しく生きようとしても、なお欠けているものがあるのです。
人は自分の行いによっては、義とされない―神様からOKと言ってもらえない
のです。
このことが分かるようにしてくれるのが律法です。
本気で、真剣に律法を守って正しく生きようとするならば、完璧に守れない
自分が見えてくるのです。
自分は正しい人間だと思うならば、それは律法をいい加減に守っているから
です。
律法を守ろうとすればするほど、出来ない自分が見えてくるはずです。
律法は、私達の内にある、気付かないでいた罪を明らかにしてくれます。
●神には出来る
けれど、罪が明らかになって、それで終わりではないのです。
二人のやりとりを、弟子達が聞いていました。
弟子達は驚いて言うのです。
「それでは、だれが救われるのだろうか」
イエス様は弟子達を見つめて言われました。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
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●キリスト
人は誰一人、自分の行いによって救ってもらうことは出来ません。
けれど神様は人を救うことがお出来になります。
神様はイエス・キリストをこの世に送ってくださったのでした。
イエス様は人にはどうすることも出来ない罪を全部負って、代わりに罪を償
ってくださったのでした。
イエス・キリストの十字架の出来事によって、私達すべての者は赦され、義
と認められたのです。
これが、キリストによってなされた真実です。
●真実
今、私達が読んでいる聖書には、「キリストによる真実」という言葉が出て
来ません。
「真実」を「信仰」と訳しています。
原文のギリシャ語「ピスティス」は「信仰」とも「真実」とも訳せる言葉なの
です。
「信仰」というと、人が信じるという、人の行いが言われていると受け取る
ことになります。
けれどここで言われているのは、キリストによってなされた救いの出来事で
す。
神様が一方的になさいました。
そこに人は全く関わっていません。
ですから「真実」と訳した方が良いでしょう。
●聖書協会共同訳
最近新たに訳し直された聖書協会共同訳では「真実」と訳しています。
22節から聖書協会共同訳で読みますので、皆さんは持っておられる聖書の
「信仰」という言葉に注意して聞いていてください。
「しかし、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めました。約束がイエス・
キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。
真実が現れる前は、私たちは律法によって監視され、閉じ込められていまし
た。やがて真実が啓示されるためです。
こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。私たちが真実
によって義とされるためです。
しかし真実が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。」
 
●来る
25節の「 しかし、信仰が現れたので」の「現れる」は「来る」という言葉
です。
人が信仰を持ったので現れるのではありません。
キリストによる救いは来るものです。
神様から私達へと来るのです。
 
●中に
26節の「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の
子なのです。」の「結ばれて」は「中に」です。
英語で言えばinにあたる言葉です。
「あなたがたすべての者は、神の子です、キリストによる真実によってイエ
ス・キリストの中に入れられて」
となります。
信仰を持ったから、キリストに結ばれて神の子になるのではありません。
キリストの真実によって神の子とされるのです。
キリストの真実―キリストの十字架による救いはもう実現しています。
神様はキリストにおいて一方的に救ってくださっているのです。
私達はすでにキリストの中に置かれています。
 
●信仰を持つということ
それならば「キリストを信じる」「信仰を持つ」ということはどういうことで
しょうか。
すでに神様によって一方的に成し遂げられているキリストの救いと、私達人
間が「信じる」ということの関係を、いつも水の入ったコップに喩えてお話し
しています。
机の上に水の入ったコップがあります。
のどがからからに渇いている人が部屋に入ってきました。
机の上に水があるのですけれど、その人が気付かなければ水を飲むことがで
きません。
のどが渇いたままです。
コップがあることに気付いて、水を飲んだ時、初めて渇きが収まるのです。
これと同じです。
キリストの出来事によって、すでに救いは成し遂げられています。
もうあるのです。
この事実に気付いて受け入れることが信仰を持つ、ということです。
水があることに気付いて飲む人のようです。
キリストの出来事が、その人自身の救いになります。
 
●バプテスマ
私達は、キリストの救いを知り受け入れた時、バプテスマを受けます。
27節には「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリ
ストを着ているからです。」
とあります。
ここにも「キリストに結ばれて」という言葉が出て来ますが、こちらは「中
に入っていく」という言葉です。
英語で言えばintoです。
「キリストの中へとバプテスマを受ける」と書かれています。
バプテスマを受けるということは、キリストの中へと入っていくことです。
それは、キリストを着ることだ、と書いてあります。
 
●ゼカリヤ書
旧約聖書ゼカリヤ書に記されている幻が、思い出されます。
こういう幻です。
主はゼカリヤに、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って
彼を訴えようとしているサタンを示されます。
主の御使いがサタンに言います。
「サタンよ、主はお前を責められる。
ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」
ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていました。
御使いは自分に仕えている者たちに向かって言います。
「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」
御使いはヨシュアに言います。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を
着せてもらいなさい。」
私は火の中から取り出された燃えさしだとつくづく思います。
サタンが私の罪を数え上げ訴えます。
けれど主は言われるのです。 「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を
着せてもらいなさい。」
燃えさしである私なのに、キリストがわたしを被ってくださるのです。
包み込んでくださるのです。
●結語
今キリストはわたしに着せようと、晴れ着を大きく開いて待っていてくださ
います。
私達がすることは晴れ着を着せていただくことです。
ただそれだけです。
幼子が母親の腕の中に飛び込んでいくように、素直にキリストの中へと飛び
込んでいくのです。
キリストは、わたしをすっぽりと包み込んでくださいます。
暖かいです。
安心です。
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