| <メッセージ> |
| ●福音の真理 |
| 新しい年を迎えました。 |
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| 2022年最初の礼拝で、キリストの福音の真理、キリストの福音のかなめ、 |
| 中心、を教えていただけることを、主に感謝します。 |
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| キリストの福音の真理とは、「律法ではなくキリストによって義とされる」 |
| ということです。 |
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| 「義とされる」という言葉は、日本語訳でもわかるように、受身です。 |
| 義とするのは、神様です。 |
| 人は神様によって義とされるのです。 |
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| ●義とは |
| 「義」とは何でしょうか。 |
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| 「義」という言葉は、もともとは裁判で使われる言葉です。 |
| AさんとBさんが契約を結びます。 |
| その契約に従ってお互いが正しく行動しているというAさんとBさんの関係 |
| を表すのが「義」という言葉です。 |
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| ですから、神様と人とがお互いに契約に従って正しく行動しているという関 |
| 係にあることが「義」なのです。 |
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| ●契約に基づいて |
| 「義」であるかどうかを判断するもとになるのは契約です。 |
| 契約内容に基づいて、正しい行動をとっているか、いないかが判断される |
| のです。 |
| 従って、「律法ではなくキリストによって義とされる」ということは、神様は、 |
| 律法に基づいて人との関係を判断されるのではなく、キリストに基づいて |
| 判断される、ということです。 |
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| このことが、キリストの福音の真理です。 |
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| ●律法 |
| イエス・キリストが来られる以前は、神様と人との関係は、律法によって結 |
| ばれていました。 |
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| 直接律法が与えられたのはユダヤ人です。 |
| モーセを通して十戒が与えられました。 |
| ユダヤ人達は、それはそれは熱心に、律法を守ろうとしたのです。 |
| 普段の暮らしの中で律法を守るにはどうすればいいのか。 |
| 具体的な事柄についての掟が作られていきました。 |
| 十戒が憲法だとすれば、掟は法律にあたります。 |
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| 守られなければならない掟がたくさん出来ました。 |
| 飛び越えなければならないハードルが幾つも目の前にあるような状態です。 |
| 目がくらみます。 |
| すべてのハードルを飛び越えるのは容易なことではありません。 |
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| 一方で、一つ一つのハードルが低くなったということがあります。 |
| 跳び越えられない高さではない、気の遠くなるほどの数のハードルがあるけ |
| れど、一つ一つは努力すれば飛び越えられるハードルになりました。 |
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| ●下げられたハードル |
| イエス様は言われています。 |
| 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを |
| 受ける』と命じられている。 |
| しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」 |
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| 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 |
| しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、 |
| 既に心の中でその女を犯したのである。」 |
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| 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 |
| しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさ |
| い。」 |
| (マタイ5章) |
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| イエス様が求めておられることを聞くと、当時ハードルが飛び越えられる高さ |
| にまで下げられていたことがわかります。 |
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| ●断絶 |
| すると何が起こったか。 |
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| ハードルを飛び越えられた人は、自分は神様から義とされている、正しい人 |
| 間だ、と思うようになりました。 |
| 飛び越えられない人々は、汚れている、罪人だと思いました。 |
| その人達と交わろうとしません。 |
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| 異邦人は、ハードルを飛び越えられないどころか律法を知らないのですから、 |
| 完全な罪人です。 |
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| ●パウロ |
| パウロも熱心に律法を行っていました。 |
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| 「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多 |
| くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」 |
| と1章にあります。 |
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| フィリピの信徒達に宛てた手紙では |
| 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン |
| 族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派 |
| の一員、 |
| 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない |
| 者でした。」 |
| と記しています。 |
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| パウロは、徹頭徹尾、律法の行いによって義とされると思っていたのです。 |
| 自分は律法を熱心に行っている、自分は義とされている、自分のしているこ |
| とは正しいと思っていました。 |
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| そのパウロに復活のイエス様が言われたのでした。 |
| 「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。」 |
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| 目から鱗が落ちました。 |
| 今までまったく見えなかったものが見えました。 |
| キリストの十字架は、わたしを義とするためであったとわかりました。 |
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| パウロは言います。 |
| 「2:16 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義と |
| されると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行 |
| ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律 |
| 法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」 |
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| パウロは誰よりも熱心に律法を実行してきたのです。 |
| 一生懸命実行して来たからこそ良くわかるのです。 |
| 律法の実行によっては、だれ一人義とされない―神様と正しい関係になれ |
| ない―ことがわかります。 |
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| パウロはキリストの福音の真理を得たのでした。 |
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| ●反論 |
| 今パウロは、ガラテヤの信徒達に手紙を書いています。 |
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| ガラテヤの教会の人々は、福音の真理から外れそうになっていました。 |
| キリストの福音は信じるけれど、キリストだけでは不十分、律法の行いも必 |
| 要だ、思うようになっていたのです。 |
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| 彼らは、パウロの言葉に反論してくるでしょう。 |
| 「キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、 |
| キリストは罪に仕える者ということになるではないか。」 |
| 「もしキリストを信じて義とされることが律法からの自由を意味するのならば、 |
| 律法違反の罪を犯すことを勧めることになるではないか。キリストは罪に奉 |
| 仕している」 |
| ということです。 |
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| ●決してそうではない |
| パウロは「決してそうではない。」と強く否定します。 |
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| 「2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違 |
| 犯者であると証明することになります。」 |
| 「律法によらない、としたのに再び律法を持ち出すことをするならば、自分で |
| 律法に違反したことを認めることになる」 |
| ということです。 |
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| そうではないのです。 |
| 「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだの |
| です。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」 |
| 律法に基づけば、すべての人は罪を犯しています。 |
| 死に定められるほかありません。 |
| 律法によれば死ぬほかない人を、神様はキリストの十字架によって生かさ |
| れます。 |
| 律法は死ぬのです。 |
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| ●キリストと共に十字架に |
| 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」 |
| というのは、わたしがキリストのようになる、ということではありません。 |
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| 人の罪を代わって負うことが出来るのはキリストだけです。 |
| 人は誰も出来ません。 |
| 自分自身が負いきれないほどの罪を犯しているからです。 |
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| キリストがわたしを背負って十字架に罪を贖ってくださっているのです。 |
| キリストはわたしを背負ってくださる方、 |
| わたしはキリストに背負われている者です。 |
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| キリストによって生きているわたしです。 |
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| ●キリストの真実 |
| けさ私達は福音の真理を聞きました。 |
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| 「律法ではなくキリストによって義とされる」 |
| 神様は、律法に基づいて人との関係を判断されるのではなく、キリストに基 |
| づいて判断される。 |
| キリストによって、人を義とされる。 |
| これがキリストの福音の真理です。 |
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| 私達が今読んでいる新共同訳聖書は「人は律法の実行ではなく、ただイエ |
| ス・キリストへの信仰によって義とされる」とあります。 |
| 今度新しく訳された聖書協会共同訳は「イエス・キリストへの信仰によって」を、 |
| 「イエス・キリストの真実による」と訳しています。 |
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| その次にある「律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただ |
| くためでした。」の「キリストへの信仰によって」も、 「キリストの真実によって義 |
| としていただく」と訳しています。 |
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| どちらにも訳すことが出来ます。 |
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| 「キリストへの信仰」と訳すと、義とされるかどうかの判断はその人の信仰に |
| 基づくと言っているように聞こえます。 |
| その人の信仰の有り無しで、救われるか、救われないかが決められると思っ |
| てしまいます。 |
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| けれどそうではないのです。 |
| 「人が義とされるのは、律法の行いではなく、ただキリストの真実による」ので |
| す。 |
| キリストの真実とは、キリストの十字架の出来事です。 |
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| ローマの信徒への手紙です。 |
| 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・ |
| イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」 |
| 義かどうかを判断するはかりが、人からキリストに変わったのです。 |
| 人の行いに基づくのではなく、キリストに基づいて判断されるのです。 |
| キリストは、十字架によって、すべての人のすべての罪を贖って、義とされて |
| います。 |
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| ●信じるということ |
| この事実を知り、受け入れることが信仰を持つ、ということです。 |
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| 16節の聖書協会共同訳です。 |
| 「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真 |
| 実によるのだということを知って、私達もキリスト・イエスを信じました。」 |
| キリストの真実を知って、その真実を受け入れることが、キリストを信じるという |
| ことです。 |
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| キリストの十字架による救いはすでに成し遂げられています。 |
| けれどその事実を知らないでいれば、その人はずっと自分の行いに縛られた |
| ままです。 |
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| のどが渇いている人が居るとします。 |
| 机の上に水の入ったコップが置いてあります。 |
| でもそこに水があることに気づかなければ、その人は水を飲むことが出来ません。 |
| 渇いたままでいることになります。 |
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| ちょうどそのように、すでにキリストの救いが成し遂げられているのに、それを知 |
| らないでいれば、渇いたままです。 |
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| キリストを信じる、ということは水がそこにあることに気付いて、水を飲むことです。 |
| キリストという水が、飲んだ人を生かします。 |
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| ●信頼して生きる |
| キリストを信じるということは、頭の中で理解することではありません。 |
| 信じるとは、キリストを信頼して生きることです。 |
| キリストという命の水を飲んで生きていくことです。 |
| 「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自 |
| 身を献げられた神の子の真実によるものです。」 |
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| ●逆戻りしない |
| 律法の行いに逆戻りしてはなりません。 |
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| 私達はほっておけば、律法の行いに逆戻りするのです。 |
| 良い行いをすれば、正しく生きていれば、神様が受け入れてくださるという方が、 |
| 人は納得するのです。 |
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| もし、人の行いによって義とされるなら、キリストは必要ありません。 |
| 自分で神様との正しい関係を持つことが出来るからです。 |
| キリストは無意味に死んだことになります。 |
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| けれど、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないのです。 |
| 人は、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義 |
| とされるのです。 |
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| ●結語 |
| 私達の目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示され |
| ています。 |
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| 私達はキリストをしっかりと見つめながら、この年を生きていきます。 |
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