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礼拝メッセージ 2020年 8月23日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
ヨハネによる福音書 10章19〜30節 「気をもむ人・信じる人」
〈聖書(新共同訳)〉
10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になって
いる。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言
えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたし
たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わた
しが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27  わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼
らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを
わたしの手から奪うことはできない。
10:29  わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、
だれも父の手から奪うことはできない。
10:30  わたしと父とは一つである。」
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<メッセージ>
●これまでの流れ
今日の聖書の箇所は、
「この話をめぐって」という言葉で始まっています。
「この話」とは、10章の初めから記されているお話しです。
イエス様は、羊と羊飼いにたとえてご自身のことをお話になりました。
この話がきっかけで、ユダヤ人達の間に対立が生じたのでした。
ユダヤ人達の間で意見が分かれたのは、この時が初めてではありません。
イエス様は仮庵の祭の時にエルサレムに上られました。
その時の出来事が、7章から今日の箇所10章21節までずっと続いているの
です。
イエス様は仮庵の祭が行なわれている神殿の境内でお話しをされました。
「7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」
と言う者や、
7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシア
はガリラヤから出るだろうか。
7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書
に書いてあるではないか。」
7:43 「こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。」
と記されています。
そしてイエス様がエルサレムの道を歩いておられた時のことです。
イエス様は生まれつき目の見えない人を見かけられました。
目の見えない人がイエス様の言われたとおりシロアムの池で目を洗うと、見え
るようになったのです。
このことをめぐって人々の間に対立が起りました。
9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神
のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こん
なしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見 
が分かれた。」 
と記されています。
●今日の箇所
そして今日の箇所、
「10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
「10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを
愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれ
を捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これ
は、 わたしが父から受けた掟である。」
と言われるイエス様の言葉を聞いて、また人々の間に対立が起ったのでした。
「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」
と言う人達と、
「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けら
れようか。」
と言う人達がいました。
重大な問題
「イエスは何者か」
人々にとってそれは重大な問題でした。
人々の間に対立が起るほどに、それは捨てておけない問題だったのです。
どうでもいい人ならばその人が何を言おうと、気にも留めません。
ほっておけばいいのです。
けれども人々はイエス様をほっておけなかったのです。
どうしてでしょうか。
 
●神殿奉献記念祭
22節からは、場面が仮庵の祭から神殿奉献記念祭に移ります。
季節は秋から冬へと変わりました。
神殿奉献記念祭の起源を探るには、イスラエルの歴史を遡らなければなりま
せん。
バビロンに捕囚となっていた民がエルサレムに帰還したのが紀元前538年で
す。
エルサレム陥落の時に火に焼かれた神殿は、およそ20年後に再建されました。
けれども人々が夢見ていたユダヤ人の王国は出来なかったのです。
その後もずっと周りの国々に支配され続けたのでした。
シリアの王アンティオコス4世エピファネスは、ギリシャの神々を祀るようにユダ
ヤの人々に強いました。
エルサレムの神殿にゼウスの神の像を建て、祭壇に豚の犠牲を献げるように
命じました。
従わない者は拷問され殺されました。
あまりの弾圧に人々は決起し、マカベア家のユダを指導者として、神殿を奪回
したのでした。
紀元前165年のことです。
これを記念して、神殿奉献記念祭が行われるようになったのでした。
●その後
政治的な独立を得たのはそれから20年後のことです。
ユダヤ人の国、ハスモン(マカベア)王国ができました。
けれど100年もたたないうちに、ローマ帝国に征服されてしまったのです。
紀元前63年の安息日に神殿に設けられていた要塞が突破されました。
ローマ軍の将軍ポンペイウスは神殿の至聖所に足を踏み入れました。
彼のやったことは究極の冒涜行為でした。
ユダヤ人にとっては耐えがたいことだったのです。
このような歴史を辿ってきましたから、ユダヤ人達はメシア、救い主を切望して
いたのでした。
●イエス様の時 
今、人々は、ローマ帝国に支配されている中で神殿奉献記念祭を祝っています。
昔、神殿が取り戻された喜びを思うにつけ、今の状態から救い出してくれるメシ
アを求める気持ちが強くなるのです。
ですからイエス様はどうでもいい人ではなかったのです。
イエスはメシアか、そうでないのか、それはもうユダヤ民族の全存在をかけた
事柄でした。
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●期待と疑い
神殿奉献記念祭の行われている神殿のソロモンの回廊を歩いておられるイエ
ス様。
人々は期待と疑いの間を行き来します。
イエスはあの、マカベアのユダのような人物なのか。
それとも、シリアの王アンティオコス4世エピファネスやローマ軍の将軍ポンペイ
ウスのように、神を冒涜する者なのか。
人々はイエス様を取り囲んで迫ります。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いな
さい。」
イエス様は答えられました。
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」
●私達の時代
今、この時、私達は救いを求めています。
政治・経済・自然災害・長い間に人間が作ってしまった環境破壊。
コロナウィールスは肉体ばかりでなく、人の心をもむしばんでいます。
人々はどこに救いを求めているのでしょうか。
ユダヤ人達は、切実にメシアを待ち望みました。
イエス様の出現に気をもむほどに真剣でした。
今人々はどうでしょうか。
イエス様は、どうでもいい人と思われている気がします。
イエス様が何を言おうとも、気にも留めません。
イエス様のことなど、ほっておいています。
●私達
私達もかつてはイエス様が何を言おうと気にも留めていませんでした。
けれど今は、私達にとってイエス様はどうでもいい存在ではなくなりました。
私達はここに集って、イエス様を取り囲み、イエス様の言葉を聞いています。
イエス様を信じている人も、イエス様を信じたい、でも信じ切れないと気をもん
でいる人も、もうイエス様はどうでもいい人ではなくなっているのです。
気をもんでいる状態はつらいです、宙ぶらりんです。
いつまでこんな状態が続くのか。
はっきりさせたいです。
イエス様を信じて地に足をつけて生きていきたいです。
●イエス様の声を聞き分ける
気をもむ人から信じる人になることは、イエス様の声を聞き分けることによって
なされます。
イエス様はすでに、ご自分がメシア・救い主であると言っておられるのです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言って
おられるのです。
そして事実、イエス様は私達を救うために命を捨てられたのです。
 
すでにイエス様の声は世界中に、全ての人々に届いています。
その人が聞こうとすれば聞くことが出来るのです。
 
●わたしを知っておられる
けれど、おびただしい言葉が私達を取り囲んでいます。
わんわんと鳴り響く声の中でどうしたらイエス様の声を聞き分けることができる
でしょうか。
私達にはできません。
でもイエス様が私達を知ってくださっているのです。
イエス様がわたしの心の内に語りかけてくださるのです。
それでイエス様の声を聞くことが出来るのです。
●イエス様について行く
私達は、イエス様の声を聞き分けてイエス様についていきます。
イエス様は私達に永遠の命を与えてくださいます。
私達は決して滅びないのです。 なぜなら、だれも私達をイエス様の手から奪う
ことはできないからです。
私達がしっかりとイエス様の手をつかんでいるからほかの人が奪えないのでは
ありません。
私達自身はイエス様の手をつかんでいることが出来ないです。
しっかりつかんでいると思っても、いつか力が弱まり手を離してしまいます。
それどころか、自分からイエス様の手を払いのけて他のものについて行くことさ
えするのです。
だれもイエス様の手から私達を奪うことが出来ないのは、イエス様がしっかりと
私達の手をつかんでいてくださるからです。
 
●偉大なもの
なぜそれほどまでにしてくださるのか。
ご自分の命を捨ててまで救おうとされるのか。
イエス様は言われます。
「10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であ
り、だれも父の手から奪うことはできない。」
「わたしの父がわたしにくださったもの」ってイエス様の羊のこと?
もしかして私達のこと?
そんなわけはありません。 私達が「すべてのものより偉大である」わけがあり
ません。
私達は自分の弱さ、欠け、醜さを良く知っています。
 
 ●もう一つの訳
この箇所を、今度新しく出された聖書ではこのように訳しています。
「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父
の手から奪うことはできない。」
これだと、父なる神様は偉大だから誰も奪うことは出来ない、となりますから、
よく分かります。
このような訳の違いが出るのは、写本の違いによります。
聖書は人が手で書き写して伝えられてきました。
そうすると書き間違いが起こるわけです。
聖書学者達は、いくつかの違った写本のどれが一番オリジナルに近いかを研
究します。
 
●二つの訳から
けれど私達は両方の訳から、イエス様の言葉を受け取りましょう。
すべてのものより偉大であられる父なる神様が、イエス様に与えてくださるの
です。
それだから、イエス様に与えられたそのものが、すべてのものにまさるものにな
るのです。
すべてのものより偉大なお方が、私達を何よりも大切なものと思ってくださった
のでした。
そしてイエス様の手に渡されたのでした。
イエス様は私達のために命を捨てて救ってくださいました。
こんなわたしをそれほどまでに大切に思ってくださるのです。
失われてはならないと、イエス様の命に代えて救ってくださったのです。
私達はそれほどまでに愛されているのです。
 
●結語
もう気をもむことはありません。
 
私達は確かにイエス様の救いの御手の中に置いていただいています。
何ものも、私達を神様の愛から引き離すことは出来ません。
 
私達は、ずっと永遠にイエス様の手の中に置いていただくのです。
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