<メッセージ> |
●弟子の言葉 |
道に、生まれつき目の見えない人が座って物乞いをしていました。 |
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弟子達が言います。 |
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人 |
ですか。それとも、両親ですか。」 |
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胸がえぐられる思いがします。 |
冷たい言葉です。 |
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「誰が罪を犯したか」が弟子達の関心事なのです。 |
弟子達はこの人の心の痛みに思い至ることがありません。 |
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立ったまま、この人を眺めています。 |
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●かがみこむイエス様 |
イエス様は、生まれつき目の見えない人の前にかがみ込まれました。 |
イエス様は立ったまま地面にペッと唾を吐いたわけではないでしょう。 |
唾で土をこねてその人の目に塗るためには、かがみ込まなければなりません。 |
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●出来事 |
この人にはイエス様が見えません。 |
でも、自分のすぐそばにかがみ込む気配を感じたでしょう。 |
何かをしているようです。 |
そして目に指が触れるのを感じます。 |
目に何かを塗っているようです。 |
指の暖かさがまぶたに伝わってきます。 |
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声が聞こえます。 |
「シロアムの池に行って洗いなさい」 |
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彼はその声に促されて立ち上がりました。 |
そしてシロアムの池に向かって歩き出しました。 |
おそらくシロアムの池は、彼が行き慣れていた場所だったのでしょう。 |
手引きする人がいなくても、杖で道を探りながら歩いて行くことができました。 |
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彼はイエス様に言われたとおりにします。 |
池で目を洗いました。 |
すると、目が見えるようになったのです。 |
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●神の業 |
これが、神の業です。 |
イエス様がなさいました。 |
これまで、誰もしたことがなかった、いや出来なかったことを、イエス様はなさ |
ったのです。 |
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●苦しみの理由 |
生まれた時から見えない目が見えるようになることは、あり得ないことでした。 |
一生見えないままなのです。 |
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どうしてそんな苦しみを負って生きなければならないのか。 |
「どうして?」と人々は真剣に問うたのでした。 |
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そして得た結論は「それは罪の結果だ」ということでした。 |
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●因果応報 |
この「因果応報」という考えは、多くの人が持っている考えです。 |
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私達の中にもあります。 |
「こんな不幸なことが起こったのは、この人が何か悪いことをしたからだ」 |
「この人の先祖が悪いことをしたに違いない、そのたたりが今現れているのだ」 |
と考えるのです。 |
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そんな風に言われ続けて、苦しみの中に居る人は「わたしが悪いんだ」「わたし |
の先祖がしたことの報いを何でわたしが負わなければならないのか」と思い始 |
めます。 |
苦しみが増すばかりです。 |
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●ユダヤ人の因果応報 |
ユダヤ人達も、因果応報の考えを持っていました。 |
災いが起こるのは神様に背いて罪を犯したからだ、と思っていました。 |
モーセの十戒の中には |
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、 |
父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 |
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 |
と書かれています。 |
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生まれた時から目が見えないのは罪の結果だ、と誰もが思っていたのでした。 |
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イエス様の弟子でさえ、この考えの中で人を見ていたのです。 |
「生まれつき目が見えないのは、本当に罪を犯したせいなんだろうか」と思って |
みることもありませんでした。 |
気になるのは、誰が罪を犯したか、ということだけでした。 |
律法の解釈を問題にするのです。 |
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●イエスは苦しみを見られる |
けれどもイエス様はそんな風に人を見ることをなさいません。 |
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イエス様はこの人の苦しみをご覧になります。 |
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目が見えないということは辛いことです。 |
不自由なことです。 |
当時の社会では仕事に就くことも出来ません。 |
物乞いをして生きていくほかありませんでした。 |
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●心の苦しみ |
でも、それ以上に苦しかったのは、心にかかえた闇だったでしょう。 |
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物心ついた時から「生まれつき目が見えないのは罪のせいだ」と言われ続けて |
来ました。 |
それで彼自身も「目が見えないのは自分が悪いからだ」と思うようになりました。 |
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彼の両親にも世間から冷たい目が注がれ続けました。 |
「こどもが生まれつき目が見えないのは、親の罪のせいなんじゃない」 |
という言葉が投げかけられたのです。 |
両親も苦しんで苦しんできたのでした。 |
自分のせいで子供が苦しんでいると思うのは、耐えがたい苦しみです。 |
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そんな風に親を苦しませていることがまた彼の苦しみでした。 |
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それは一生抱えていかなければならない苦しみなのです。 |
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それなのに |
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人 |
ですか。それとも、両親ですか。」 |
と問う弟子達。 |
悲しいです。 |
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イエス様はきっぱりと言われます。 |
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」 |
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そして、神の業をなさいます。 |
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●イエスが神の業をする |
生まれつき目の見えない人は、イエス様に苦しみを訴えたわけではありません。 |
見えるようにしてくださいと、願ったわけでもありません。 |
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イエス様が彼をご覧になりました。 |
イエス様が彼の前に膝をかがめられました。 |
イエス様が土をこねて目に塗られました。 |
イエス様が「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。 |
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イエス様の言われたとおりにすると、彼の目が見えるようになりました。 |
生まれた時から見えなかった目が見えるようになりました。 |
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すべて、イエス様がなさったことです。 |
これが神の業です。 |
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●私達のこと |
ここに記されているのは、私達のことです。 |
わたしのことです。 |
あなたのことです。 |
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イエス様は、私達ひとりひとりが持っている心の苦しみをわかってくださってい |
ます。 |
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訴えたわけではありません。 |
お願いしたわけでもありません。 |
イエス様が見てくださったのです。 |
イエス様が、心の苦しみから解放してくださるのです。 |
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●神の業を受けて |
神様の業を受けた彼はすっかり変わりました。 |
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「座って物乞い |
をしていた人か」とか「いや違う。似ているだけだ」と言い合うほどでした。 |
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彼は言います。 |
「わたしがそうなのです。」 |
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彼は人々から問われて答えています。 |
「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさ |
い』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 |
イエス様がしてくださったことを語ります。 |
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「その人はどこにいるのか」と尋ねられて、彼は「知りません」と言いました。 |
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今日の話は9章の終わりまで続きます。 |
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彼の言葉が変わっていきます。 |
次には「あの方は預言者です」と言います。 |
さらに |
「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これま |
で一度も聞いたことがありません。 |
あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはず |
です。」 |
と言います。 |
そしてついにイエス様の前にひざまずいて |
「主よ、信じます」と告白したのでした。 |
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●私達が言う言葉 |
私達もイエス様の救いの業に与りました。 |
私達が、人々に言う言葉は「わたしがそうなのです」だけです。 |
わたしに、イエス様がしてくださった、と言うです。 |
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「なにをしてくれたのか」と尋ねられれば、イエス様がわたしにしてくださったこ |
とをだけを言うのです。 |
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●言ってはならない |
苦しんでいる人に、「神の業があなたに現われるためです」と言ってはなりませ |
ん。 |
決して言ってはなりません。 |
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そういう言葉は、ひとつも慰めになりません。 |
苦しんでいる人を、もっと苦しませるだけです。 |
とげのように心に突き刺さります。 |
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弟子達が「だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」 |
と言ったのと同じ響きです。 |
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言っていることがどんなに正しくても、心ない言葉です。 |
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●イエス様だけが言える |
「神の業がこの人に現れるためである。」 |
と言うことが出来るのはイエス様だけです。 |
神の業をすることがお出来になるお方、神の業をされるイエス様だけが言うこ |
とが出来るのです。 |
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私達はイエス様にしていただいた者にすぎません。 |
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●体験を通して語る |
イエス様が、真っ暗闇の中で苦しんでいる者の光となってくださいます。 |
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人は、暗闇の中で光を見た体験をしたのちに、自分自身で「ああ、わたしの苦し |
みは、神様の業を知るためだったんだ」と悟るのです。 |
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●まとめ |
私達は、生まれつき目の見えない者です。 |
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わたしにはイエス様が見えません。 |
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でもイエス様はわたしを見ておられます。 |
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心の深みまで見ておられます。 |
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わたしのところに来てくださり、身をかがめてわたしの目を見えるようにしてくだ |
さいます。 |
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真っ暗闇の中に居たわたしは、光を見るのです。 |
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●結語 |
イエス様が見えない目を見えるようにしてくださいました。 |
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私達は、これからはイエス様のお顔を見ながら生きていけます。 |
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