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礼拝メッセージ 2018年 9月30日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
ローマの信徒への手紙 11章11〜16節 「世界が神と和解するために」
〈聖書(新共同訳)〉
11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということ
なのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救
いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさ
せるためだったのです。
11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、
まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことで
しょう。
11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒で
あるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたい
のです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入
  れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なる
ものであれば、枝もそうです。
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<メッセージ>
●神は分けない
神様は人間を二つのグループに分けて、一方の人々を救い、もう一方の人達は
滅ぼそうと思っておられるのではありません。
神様に従い正しい人達は救うけれど、神様に背き罪を犯している人達は滅ぼし
てしまえ、と思っておられるのではないのです。
神様はすべての人々が神様のもとに帰ってくるのを願っておられます。
神様はすべての人々を救おうとされているのです。
今この時も、神様の救いのご計画が進められています。
私達、そしてすべての人々は神様の救いの計画の中で、今の時を生きている
のです。
●人は分ける
一方、人間は何とすぐに人をグループ別けすることでしょうか。
この人達は味方、この人達は敵とグループ分けします。
この人達は正しい人達、この人達は悪い人達と分けます。
一時いやな言葉がはやりました。
「勝ち組」 「負け組」
世の中で成功した人と、うまくいかない人とを類別するのです。
勝ち組はおごり高ぶり、負け組は自分はだめだと打ちのめされます。
両方とも心が虫ばまれていきます。
 
●イスラエルの分け隔て 
イスラエルの民もそうでした。
自分達は神様の前に正しい者、異邦人は神様の前に罪を犯している者と、人を
分けていました。
そして、自分達は救われている、異邦人達は滅ぼされると思っていたのです。
その判断基準は、律法を守っているか、いないかです。
●キリストによって一つ
ところが、この判断基準が取り払われる時が来ました。
イエス・キリストが来られたのです。
キリストの十字架はすべての人を救う出来事でした。
正しい者は一人もいないのです。
すべての人が罪を犯しているのです。
そのすべての罪を、キリストが十字架で贖ってくださいました。
キリストの十字架によってすべての人は救いに入れられているのです。
すべての者が神様の前に罪人であり、すべての者がキリストの贖いによって
救われている者です。
そこに人の分け隔てはまったくありません。
罪が世の富へ
ところがユダヤ人はイエス様につまずきました。
 
自分達は神様の前に正しいと思っていた彼らは、イエスというやつは、律法に
背いている、神様を汚している、と決めつけてイエス様を十字架にかけて殺し
たのでした。
人となられた神を殺すという最も重い罪を犯したのです。
しかしこの罪が世の富に変えられました。
イエス・キリストの十字架によってすべての人々が贖われることになったのです。
 
●迫害
キリストが十字架に死なれ復活された後、聖霊を受けた弟子達は、キリストの
福音を人々に語りはじめました。
けれどユダヤ人はキリストの救いを受け入れようとしなかったのです。
彼らはキリストを信じる群れを迫害しました。
ステファノの殉教を機に、エルサレム教会に対して大迫害が起こりました。
教会の人々はユダヤとサマリアの地方に逃げていきました。
その人々は、散らされていった所で、福音を告げ知らせました。
サマリヤ人は、ユダヤ人達が最も毛嫌いし罪人と決めつけていた人達です。
この人達に福音を告げたのは、人々が迫害され散らされていったからです。
●パウロ
パウロは生粋のユダヤ人でした。
熱心に教会を迫害していました。
そのパウロに復活のイエス様が出会われたのでした。
パウロは180度の方向転換をします。
キリストを迫害していた者が、キリストの福音を伝える者になったのです。
それでパウロもユダヤ人から迫害されることになりました。
ピシディア州のアンティオケアでのことです。
主の言葉を聞こうとして、ほとんど町中の人達がパウロの所に集まってきまし
た。
ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すこと
に反対しました。
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語りました。
「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれ
を拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わた
したちは異邦人の方に行く。
主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の
光と定めた、あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために。』」
今日の箇所でパウロは言っています。
「彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりました」
「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる」
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●ねたみによって
ユダヤ人はキリストにつまずきました。
ユダヤ人は倒れてしまったのでしょうか。
決してそうではありません。
今はつまずき倒れているユダヤ人も、やがて立ち上がりキリストの救いに与る
ことになるのです。
神様はユダヤ人にねたみを起こさせようとされます。
神様が異邦人を救われるのを見て、ユダヤ人がねたむようにされるのです。
 
●悪い感情
ねたむというのは良い感情ではありません。
聖書には
「姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの
悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み
子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」
とあります。
カインは、主が弟アベルの献げ物に目を留められたけれど自分の献げ物には
目を留められなかったことでアベルをねたみ、アベルを殺したのでした。
そのような良くない感情、時には殺人を犯させるような感情を使ってでも、神様
はユダヤ人がキリストの贖いを受け入れるようにされるのです。
ユダヤ人達もまた失われてはならない人達です。
ついには救いに入れられなければならない人達だからです。
ねたむということは、ねたむ相手と同じ価値観を持っているということです。
相手がどんなに良いものを持っていても、それに価値を感じなければ、ねたむ
気持は湧きません。
ユダヤ人も神様を主とし、神様の救いに入れられることをずっと望み、懸命に
生きてきた人達です。
同じ神様の救いを求めているのだから、ねたんで欲しい。
律法を正しく行うことに懸命だったユダヤ人が、その間違いに気付いてキリスト
の救いへと方向転換してほしい、と神様は願われます。
パウロもそれを熱く望んでいます。
 
●ユダヤ人も救いへ 
神様はユダヤ人も救いに入れられます。
 
今見えるところでは全くそう思えない。
つまずき倒れ、もう立ち上がることは出来ないと思う。
死んだ者のように思える。
けれども神様は彼らを救われます。
死者に命を与えることがお出来になる方だからです。
●罪人であった時に
聖書は記しています。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な
者のために死んでくださった。
・・・
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくだ
さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
・・・
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」 ローマ書
5章
主イエス・キリストは罪人のために、敵のために死んでくださいました。
キリストは死者の中からよみがえられました。
ですから死者−すなわち罪ある者、神の敵であった者は、命をいただくことが
できます。
ユダヤ人も救われるのです。
 
●私達
私達はキリストの福音を聞きました。
キリストをわたしの救い主として受け入れました。
キリストの救いの中で生きている私達の生き様は、他の人がねたみを覚える
ほどの生き様でしょうか。
あの人はどうしていつも笑顔なのだろう。
あの人はどうしてあんなに優しいんだろう。
あの人はどうしていつも落ち着いているんだろう。
あの人はあんなにつらい目に遭っているのに、どうして平安で居られるのだろう。
他の方が「わたしもそうなりたい」と思うような生き方ができたらどんなに良いか
と思います。
●できないわたし
けれどわたしはそうなれません。
キリストを知っていながら、心に不安が湧いてきます。
キリストの救いを信じ切きれなくなる、
キリストの平安に留まっていられない者です。
わたしはつまずき倒れます。
そういうわたしですから、人をつまずかせます。
笑顔でいられない。
人に優しくない。
落ち着いていられない。
平安でいられない。
キリストを信じていると言っているだけに、よけい人をつまずかせるのです。
わたしは罪人です。
わたしはキリストの敵となる者です。
それなのに、そんなわたしのためにキリストは死んでくださったのでした。
わたしが神様から捨てられず神様に受け入れていただけるのは、ただただ
死者に命をくださるキリストによります。
 
●アガペーの像
東京駅の丸の内側に、一つの像が建っています。
かなり大きい像です。
その体は筋骨隆々としています。
腰のあたりだけに布をまとっています。
両手を天に向かって高く挙げ、天を仰いでいます。 
その台座には、愛という一文字とギリシャ語でへー・アガーと刻まれています。
そのほかの説明は一切ありません。
アガペーにへーという定冠詞がついています。
英語でいえばtheです。
抽象的な愛ではない、へー・アガペーは神の愛です。
私にはこの像が十字架にかかられたキリストに見えます。
この像は、駅に向かって立っています。
オフィスに向かう大勢のサラリーマンが足早に歩いて行きます。
旅行に出かける人達もいるでしょう。
おそらく誰もこの像がそこに建っていることに気付かないでしょう。
でもこの像は人々を見ながら、ずっと天に向かって手を挙げ祈り続けているの
です。
 
●キリストの祈り
ほとんどの人がこの像に気付かずに通り過ぎていくように、ほとんどの人達が
主イエス・キリストの十字架を知らずに通り過ぎていきます。
けれども、その人が知らなくても、キリストは一瞬の休みもなく、祈り続けてくだ
さっているのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
十字架上のイエス様の祈りが聞こえてきます。
●ついには
世界が、すべての人々が神様と和解するその日まで、主イエス・キリストは十
字架の傷のある手を天に広げて、祈り続けてくださいます。
私達は、すべての人々はみんな、ついには主の救いに与るのです。
なんとすばらしいことでしょうか。
 
●結語
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであ
れば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさら
です。」
私達はキリストによって神様と和解させていただきました。
和解させていただいた今は、キリストの命によって生かされています。
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