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礼拝メッセージ 2018年 1月7日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
ローマの信徒への手紙 6章1〜11節 「新しい命に生きる」
〈聖書(新共同訳)〉
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまる
べきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも
罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれる
ためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるた
めにバプテスマを受けたことを。
6:4 わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあず
かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の
中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなの
です。
6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるなら
ば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪
に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると
知っています。
6:7  死んだ者は、罪から解放されています。
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きること
にもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、
  と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生き
ておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11  このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イ
エスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
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<メッセージ>
●新しい年
新しい年を迎えました。
皆さんは、カレンダーや手帳を新しくされたでしょう。
汚れてきたスリッパやタオル、料理道具等々も、この機に新しいものに取り替
えたかもしれません。
大掃除をして1年間のすすを落とし、ああさっぱりした、と新しい年を迎えます。
このように、時に区切りをつけることは、暮らしの中で大切なことです。
また新しい気持で事を始めることが出来ます。
けれども、私達は「もう新年も7日過ぎてしまった。」と言います。
12月になると「とうとうカレンダーがあと一枚になってしまった。時が過ぎるの
は早いなあ。あっという間に一年が過ぎてしまう」と嘆きます。
そしてまた新しい年を迎えるのです。
そのように、新しくなってもまた古くなっていく、それが私達の暮らしの中での新
しさです。
 
●聖書が告げる新しさ
けれども聖書が告げる新しさは、このような新しさではありません。
古いものが取り去られ、全く新しくなるのです。
新しくなったけれど、また古いものに逆戻りしてしまった、ということはないので
す。
イエス・キリストの出来事は一回限りの出来事です。
この一回限りの出来事によって、世は全く新しくなったのでした。
10節に
「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておら
れるのは、神に対して生きておられるのです。」
とあります。
「死なれ」は過去形で「生きておられる」は現在形です。
「死んだ」「死んだ」と言葉が繰り返され「生きる」「生きる」と繰り返されて、対比
されています。
 
イエス・キリストは十字架にかけられて死なれました。
神様は死者の中からキリストを復活させられました。
このただ一回限りの出来事によって、今までとは全く違う、別の新しい時が始
まったのです。
この一回限りのキリストの出来事は、いったい何だったのかを、神様はパウロ
を用いて教えてくださっています。
これまで学んできたことを思い返してみましょう。
すべての人は罪を犯しています。
ここで言う罪は、いわゆる警察沙汰になるような罪、倫理道徳に反する罪のこ
とではありません。
聖書で使われている罪ハマルティアという言葉は「的を外す」という意味です。
的外れの生き方をしている、という言い回しは普段でも使われます。
人は的外れな生き方をしている、神様に向かわずに自分中心に生きている、
それが聖書で言う罪なのです。
 
●律法
神様に向かって生きていくようにと、神様は律法を与えられました。
けれども人は律法を行うことが出来なかったのです。
かえって自分は律法を守っていると神様に対しておごり高ぶりました。
他の人に対しては、律法を守っていない、あいつは汚れていると、人を裁く人
間になっていきました。
 
結局誰一人、神様に向かって生きることが出来なかったのです。
律法によって明らかになったのは、人の罪でした。
 
●キリスト
ついに神様はキリストをこの世に送られました。
キリストはすべての人の身代わりになって十字架に死に、すべての罪を贖って
くださったのです。
十字架に死なれたキリストを、神様は復活させられました。
今、キリストは新しい命に生きられています。
もはや死ぬことがありません。
キリストの出来事はすでに起こりました。
古いものは過ぎ去りました。
新しい時が始まっています。
ここまでのことは、すべて神様がなさったことです。
神様が一方的になさった恵みの出来事です。
 
●人間側のこと
ここからは、私達自身のことです。
神様は、「さあ、わたしの贈り物を受け取りなさい」と、キリストの恵みをすべて
の人達に差し出しておられます。
「受け取るのに何の条件もいらない、ただであげるのだから」
と言っておられます。
神様からの贈り物−神様が成し遂げてくださっているキリストによる赦しを、あ
なたは受け取りますか。
 
●行いと報酬
ただで何の条件もなしにあげるよ、と神様はおっしゃるのですから、みんなが
喜んで受け取ると思うかもしれません。
ところが人はそう思わないのです。
私達は、その人の行いに対して報いが与えられるという世界に生きています。
優秀な人に、高い業績を上げた人に、より多くの報酬が与えられるのです。
 この考え方は、信仰の世界にも行き渡っています。
信心深いこと、清くあることが神様から報いを受けるための条件だと思ってい
ます。
イエス様がこの世に来られた時代、
パウロがローマの信徒達に手紙を書いているこの時代の人達もそうでした。
人々は、律法を正しく行うことが、神様から義とされる、神様から良しと認めら
れるための条件だと思っていたのです。
ところがパウロは、
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とさ
れるのです。」
と言いました。
今日の箇所のすぐ前5章20節では
「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が
増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
と言っています。
これに対して人々は反論します。
「罪人が義とされるなら、無条件で赦されるのなら、何もわざわざ律法を行わな
くっていいんだな。
寝転んで罪を重ねていていいわけだ」
当時の人達だけではありません。
私達も、何もしなくても救ってもらえるなら、寝そべっていよう、と思う者です。
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●決してそうではない
それに対してパウロは
「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。」
と言います。
パウロの言うとおりです。
実際、神様はただキリストによってわたしの側の何の条件もなしに赦してくだ
さっていることを受け入れた時、罪の中に寝そべっていることは起こりません。
神様の恵みに応えて生きていきたいと思うのです。
 
●バプテスマ
神様の贈り物を、ただただ「ありがとうございます」と受け取ることが、バプテス
マを受けるということです。
どんなにすばらしいプレゼントでも、受け取ることをしなければ自分のものには
なりません。
信仰を告白してバプテスマを受けることによって、キリストの救いの出来事がわ
たしにとっての生きた事実となるのです。
 
●例 
コップに入った水にたとえてみましょう。
水はもうずっと前からそこにありました。
これは客観的な事実です。
そしてわたしは喉が渇いている。
ところがわたしがそのコップに気付かなかったら、事実そこに水はあるのだけ
れども、わたしにとっては水は存在しないわけです。
だから水を飲むことは出来ません。
ここにコップがあると気付いた時初めてわたしにとってコップが存在するのです。
そしてわたしは水を飲むことが出来るのです。
わたしの渇きはいやされます。
それと同じです。
キリストによる救いはすでに存在しています。
けれどそれに気付かないうちは、その人にとって存在していません。
ここに救いがあると気付いた時、初めて、その人にとって現実のものとなるの
です。
私達はキリストによる赦し、救いがここにあると気付いた時、信仰を告白して
バプテスマを受けます。
わたしがキリスト・イエスに結ばれるのです。
 
●新しい命に生きる
キリストの救いがあることに気付き、それを受け入れてバプテスマを受けて、
私達は新しい命に生き始めます。
「生きる」という言葉は、歩き回る、いつも同じ場所に居るわけではないがほと
んど滞在する、という言葉です。
歩いて行く、生活する、という意味もあります。
「新しい命に生きる」ということは、観念的なことではありません。
キリストに結ばれて、日々生活していくということです。
具体的なことです。
 
●古い自分
古い自分がキリストと共に十字架につけられ、罪の支配が滅ぼされます。
古いわたしは罪に支配されていたのでした。
罪とは的を外すということでした。
古いわたしは的外れの生き方をしていました。
これまでわたしは何を見つめて生きてきたのか。
がんばってがんばって生きてきました。
それでも心の中には満たされない空洞がありました。
人の言葉に傷つき、人の目を恐れていました。
人からの評価を気にしていました。
より高く、より多くを求め懸命に努力をし、得意な気分になることもありました。
そういう時は、他の人を見下げていました。
まじめに一生懸命に生きてきたのに、求めるものを手に入れることが出来ずに、
落ち込みました。
自分はだめだと、自分を責め、深い淵に沈んでいきました。
結局、いつも自分を見ていたのです。
自分一人で負わなくてはと、肩を張って生きてきました。
自分で自分を持ち上げようとしてきたのです。
でも、自分を自分で持ち上げることが出来るでしょうか。
●古い自分が死ぬ
キリストを知り、キリストに結ばれた時、古い自分が死にました。
自分ばかりを見ていた目が、キリストに向けられます。
キリストを見ていると、自分には目が向きません。
もうあれこれと心配しなくなります。
キリストに結ばれているから大丈夫なのです。
●復活の命
キリストは、死者の中から復活されました。
キリストは、もはや死ぬことはありません。
死がもはやキリストを支配することが出来ないのです。
私達の肉体の命はいつか失われます。
けれども、私達はキリストの死の姿にあやかっているのですから、キリストの
復活の姿にもあやかれるでしょう。
私達は生きている今を、先にある永遠の命を望み見ながら、今すでにある永
遠の命の中で生きていくのです。
 
●新しい年
私達は新しい年を歩んでいきます。
私達自身は、新しく始めたつもりでも古くなってしまう者です。
けれども、キリストによる新しさは、元に戻ってしまう新しさではありません。
キリスト以前とは全く違う、質の違う新しい時がすでに実現しています。
永遠の命をたたえたコップはもう目の前にあるのです。
いつもあるのです。
私達はそれが見えなくなって、すぐに渇いてしまいます。
けれども神様は私達に気付かせてくださいます。
「さあ、わたしの命の水を飲みなさい」
「わたしはあなたに何の条件も求めない。ただであげるのだよ」
と手をさしのべてくださいます。
私達がすることは、神様が差し出してくださった命の水を受け取って飲むこと
だけです。
その時渇きが癒やされたことを知るでしょう。
 
●結語
私達は、キリスト・イエスに結ばれて、キリストの命をいただきながら、新しい年
を生きていきます。
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