| <メッセージ> |
| ●今日の聖書 |
| 今日はペンテコステ―聖霊降臨日です。 |
| 今日の聖書の箇所として、ローマの信徒への手紙1章16〜17節を与えてく |
| ださったのは神様です。 |
| 礼拝でローマの信徒への手紙を読み進めてきて、たまたまこの箇所に当たり |
| ました。 |
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| ●ペンテコステ |
| イエス様は十字架に死なれ、復活されたのち、40日にわたって弟子達にご自 |
| 分を表わされました。 |
| それから天に上げられました。 |
| この時から10日後に、聖霊が弟子達の上に降ったのです。 |
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| この日から、弟子達によって福音が全世界に宣べ伝えられ始めました。 |
| そして今も福音が宣べ伝えられています。 |
| 私達は福音を聞いて信じ、福音に生かされているのです。 |
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| ●福音 |
| 福音とは何かということを、今日しっかりと心に刻みたいと思います。 |
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| 福音とは、イエス・キリストです。 |
| 今日の聖書の箇所には、 |
| 「福音には、神の義が啓示されている。」と書かれています。 |
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| ●啓示 |
| 「神の義」「啓示」と、むずかしい言葉が出てきました。 |
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| 「啓示」というのは、隠されているものを明るみに出す、覆いを取り除くという意 |
| 味です。 |
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| 今まで人の目には隠されていた「神の義」が、福音によって明るみに出された、 |
| 覆いがあって見えなかった覆いが、福音によって取り除かれた、ということです。 |
| 「神の義」は、キリストの出来事によって、初めて見えるようになった、わかるよ |
| うになった、ということです。 |
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| ●思い違い |
| 私達は「神の義」について思い違いをしてきたのではないでしょうか。 |
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| 「義」という言葉を聞いた時、皆さんはどのようなことを思い浮かべますか。 |
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| 真っ先に思い浮かぶのは「正しい」ということでしょう。 |
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| 正しいことは良いことです。 |
| 私達は自分が正しくありたい、正しく生きたいと思っています。 |
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| 正しいということは、人を裁く時にも使います。 |
| あなたのしていることは正しくない、と言うのです。 |
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| 正しいということは人を区別するためにも使われます。 |
| この人達は正しい人、この人達は正しくない人と区別するのです。 |
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| ところで私達が正しいと思う、正しいと判断する、その基準になっているものは |
| 何なのでしょうか。 |
| 何をもって正しいとするのでしょうか。 |
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| ひと言で言うのは難しいです。 |
| 社会が決めている基準、これまでの経験から得たもの、なんとなく気持的なも |
| のまで含めて結構漠然としています。 |
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| そのような、私達がすでに持っている「正しい」という物差しで「神の義」を考え |
| るのです。 |
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| 神様なのだから絶対的な正しさを持っておられると思います。 |
| 何か近寄りがたい冷たさを感じます。 |
| 神様はその正しさをもってわたしを裁くのです。 |
| わたしに下されるのは神の怒りです。 |
| ですから、「神の義」は裁きを連想させる恐ろしいひびきを持って聞こえます。 |
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| ●「神の義」 |
| けれどもそうではないのです。 |
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| 「神の義」は福音の中に啓示されているのです。 |
| イエス・キリストの出来事を見ると、「神の義」がわかるということです。 |
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| 「神の義」というものは、神様が持っておられる絶対的な正しさだと思っていま |
| した。 |
| けれども「神の義」は神の性質として固定されて静止しているものではないの |
| です。 |
| 「神の義」は神が神として働かれるということです。 |
| 神が神として働かれるということは、神がご自分の思い通りにされるということ |
| です。 |
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| 神様がご自分の思い通りにされた結果、イエス・キリストが十字架にかけられ |
| たのでした。 |
| キリストの十字架を見て私達は知るのです。 |
| 「神の義」は、すべての人々を救うことなのだ、と。 |
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| 人を冷たく裁くことが「神の義」ではありません。 |
| 「神の義」は神の恵みなのです。 |
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| ●人が義とされる |
| 神様はキリストの十字架の贖いによってすべての人々を救ってくださいました。 |
| これが「神の義」です。 |
| この「神の義」の中に入れていただくことが、「人が義とされる」ということです。 |
| 神様からの一方的な働きかけによって、私達は神様の働きの中に入れられる |
| のです。 |
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| 「人が義とされる」と言うと、その人が正しい人になることのように思います。 |
| そうではありません。 |
| その人が清く正しい人になることでは全くありません。 |
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| ●信仰 |
| そして信仰とは、イエス・キリストによって明らかになった「神の義」、神の救い |
| を受け入れることです。 |
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| イエス・キリストの十字架によって、「神の義」はこの地上に見える形で実現しま |
| した。 |
| もはや、隠されていません。 |
| 覆いは取りのけられています。 |
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| けれどもいくらそこにあっても、その人が受け取らなかったら自分のものにはな |
| りません。 |
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| 目の前に水の入ったコップが置いてあっても、コップを手にとって水を飲もうとし |
| なかったら、喉の乾きを止めることができません。 |
| コップを手に取って飲んだ時、その人にとって初めて水が現実に存在するもの |
| になるのです。 |
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| それと同じです。 |
| 神様の救いの恵みを受け取った時、その人にとって救いが現実になります。 |
| その人は救いの中に生き始めるのです。 |
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| ●信仰を通して |
| 「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」 |
| と書かれています。 |
| 「それ」は「神の義」のことです。 |
| すると、信仰が、「神の義」に与るための条件であるかのように思ってしまうか |
| もしれません。 |
| けれどそうではありません。 |
| 神様の救いに与るのに人間側のどのような条件も必要ないのです。 |
| 「神の義」はもうなされているのです。 |
| すでになされているこの事実を受け取るのが信仰です。 |
| ただただ「神様ありがとうございます」と受け取るのです。 |
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| ところが、はじめはただただ喜んで恵みを受け取っていたのに、次第に何かを |
| 付け加えるということを、私達はよくするのです。 |
| よりしっかりした信仰が必要だ、 |
| 聖書の知識が多いほど立派になれる、 |
| よい行いを積まなければいけない、 |
| などなど |
| 自分は何かを付け加えているのではないかと、省みましょう。 |
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| ●正しい人は |
| 「正しい人は信仰によって生きる」とあります。 |
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| 正しい人というのは、いわゆる正しい人ではありません。 |
| 神様の恵みを受け取った人のことです。 |
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| 信仰とは神様に信頼して生きることです。 |
| 神様の恵みを受け取った人は、神様に信頼して生きていくのです。 |
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| 福音によって「神の義」は明らかになりました。 |
| 私達は、キリストによって実現された神様の赦しの中に生きています。 |
| 信仰によって生きる、神様に信頼して生きていきます。 |
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| ●福音の宣教者パウロ |
| ペンテコステは、「神の義」が啓示されている福音−イエス・キリストをすべて |
| の人々に伝えるようにと、神様が弟子達に聖霊を注がれた日です。 |
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| ローマの信徒への手紙を書いたパウロも、後に福音を宣べ伝えるために神様 |
| に召されたのでした。 |
| 彼は |
| 「わたしたちはこの方(イエス・キリスト)により、その御名を広めてすべての異 |
| 邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」 |
| と書いています。 |
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| それでローマの信徒達へ手紙を書いたのです。 |
| 「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」 |
| とあります。 |
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| 日本語には訳されていませんが「なぜならば」という言葉があって |
| 「わたしは福音を恥としない。福音は、神の力だからです。」 |
| と続きます。 |
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| ●福音を恥としない |
| 「福音を恥としない」 |
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| 福音を恥とする私達がいます。 |
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| 私達は、イエス様の福音を伝えたいと願っています。 |
| けれども話すことにためらいを感じるのです。 |
| 話すことができないのです。 |
| 話しても、相手の人が受け入れてくれないからです。 |
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| 受け入れられない経験を重ねていくと、自分がイエス・キリストを信じているこ |
| とを隠そうとします。 |
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| 福音を信じていることが恥ずかしくさえ思えてくるのです。 |
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| パウロもそういう辛さを抱えていたのでしょう。 |
| コリントの信徒達へこう書き送っています。 |
| 「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったの |
| です。 |
| ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 |
| わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユ |
| ダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 |
| ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知 |
| 恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 |
| 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」 |
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| 自分の力で福音を伝えようとしてはなりません。 |
| 自分に頼るなら、自分のやり方がよくないからだ、自分は弱い、力がない、と |
| 自分を責めることになります。 |
| 相手が受け入れてくれたら、自分を誇ることをします。 |
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| 宣教の業は、神様がなさることです。 |
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| ●聖霊を待ちなさい |
| 復活のイエス様に会った弟子達は、勇み立ちました。 |
| 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ね |
| ました。 |
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| すると復活のイエス様は言われたのです。 |
| 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレ |
| ムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わた |
| しの証人となる。」 |
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| 自分達が奮い立ってしてはならない、ということです。 |
| 聖霊を待ちなさい、と言われました。 |
|
| 弟子達には、一時勇み立っても、聞き入れられない、迫害をされる苦しみの中 |
| で立ち続ける力がないからです。 |
| 彼等は、聖霊の力で、キリストの証人となるのです。 |
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| ●私達 |
| イエス様の弟子達、パウロ、そして実におびただしい人達がキリストの証人と |
| されていきました。 |
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| 私達はその人達の証言を聞いて、キリストの救いを受け入れました。 |
| キリストに信頼して生きています。 |
|
| 神様は私達にも聖霊を注いでくださっています。 |
| 私達もキリストの証人にされています。 |
|
| 力がないと悲観してはなりません。 |
| 自分の力に頼ってはなりません。 |
| 福音が神の力なのです。 |
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| ●結語 |
| すべての人々をキリストの十字架によって救うことが神様のご意志です。 |
| 福音は地の果てまで宣べ伝えられていきます。 |
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