トップページ 教会紹介 集会案内 周辺地図 こどもの教会 お知らせ リンク
メッセージ
今までのメッセージはこちらから
礼拝メッセージ 2017年 11月12日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
ローマの信徒への手紙 4章13節〜25節 「神の約束を信じて」
〈聖書(新共同訳)〉
4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、
その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされ
たのです。
4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であ
り、約束は廃止されたことになります。
4:15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありま
せん。
4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによっ
て、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、
彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたした
ちすべての父です。
4:17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。
死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、
アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あな
たの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父とな
りました。
4:19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、
そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりは
しませんでした。
4:20  彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によっ
  て強められ、神を賛美しました。
4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたの
  です。
4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
4:23  しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのため
  だけに記されているのでなく、
4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを
  死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められま
  す。
4:25  イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされ
  る ために復活させられたのです。
ページの上に戻る
<メッセージ>
●約束・信仰・希望
約束と信仰と希望は1つに繋がっています。
まずはじめに神様が約束してくださるのです。
神様の約束は必ず実現すると受け取ることが、信仰です。
神様の約束は実現すると信じる時、希望が湧いてきます。
今現在がどんな状況であっても、全く希望するすべもない状況であっても、なお
希望を持つことが出来るのです。
 
●アブラハム
旧約聖書に出てくるアブラハムは、神様から約束をいただき、その約束を信じて、
希望を持って生きた人物です。
まず神様がアブラハムに、彼やその子孫に世界を受け継がせることを約束され
たのでした。
先週も見ましたように、創世記15章には、主がアブラハムを外に連れ出して、
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫
はこのようになる。」
と言われたと記されています。
アブラハムは神様の約束を信じました。
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
と書かれています。
 
●約束
神様のアブラハムに対する約束はこの時が初めてではありませんでした。
アブラハムが主に出会った最初から、約束をくださっていたのです。
主は言われました。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」
そして約束してくださいました。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上
の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
12章に記されています。
さらに、カナンに入ったアブラハムに主は
「あなたの子孫にこの土地を与える。」
と約束されました。
 
●色々なこと
主の約束をいただいて生きるアブラハムです。
けれどもアブラハムには色々なことがありました。
飢饉のためにエジプトに下った時に、妻サラを妹と偽りました。
甥のロトと別れました。
5人の王達との戦いがありました。
そして、サレムの王メルキゼデクとのやりとりがありました。
 
ここに記されているアブラハムは活力に溢れています。
子供が生まれない
そして15章に入るのです。
ここではアブラハムは
「あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐ
ことになっています。」
と言っています。
子供が生まれないということが、重い現実となっています。
子供が生まれることが難しい年齢になっていたのでしょう。
子供が生まれないから、家の僕が後を継ぐと、アブラハムは決めていました。
ところが主は言われるのです。
「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
アブラハムは主を信じました。
 
●アブラハムの信仰
ローマ書の今日の箇所には、アブラハムの信仰が語られています。
「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして
妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強め
られ、神を賛美しました。
神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」
とあります。
まことにすばらしい信仰です。
信仰はかくあるべきだと言える信仰を、アブラハムは持ちました。
アブラハムは信仰者のお手本だ、自分もアブラハムのような信仰を持ちたいと、
私達は思います。
 
●信仰によって義とされない
そう思うと同時に、自分の信仰はアブラハムの信仰とはほど遠いことを思い知
らされます。
アブラハムほどの信仰を持たなければ神様から義とされないなら、わたしは
神様に義としていただくことが出来ません。
わたしはアブラハムの子孫になれません。
アブラハムはわたしの父ではありません。
私達はどこかで思い違いをしてしまったのではないでしょうか。
パウロが、律法の行いに対して信仰によって義とされると言う時、その人の信
仰の程度によって義とされたりされなかったりするものではなかったはずです。
信仰とは何ですか。
  ページの上に戻る
●神が導く 
アブラハム自身が信仰の達人なのではありません。
アブラハムの信仰は、アブラハム自身が持っている信仰ではないのです。
主がアブラハムを導いておられるのです。
主がアブラハムを支えておられるのです。
主の方から行動を起こされるのです。
 
主から
「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
と言われ、主を信じたアブラハムでした。
その後、こどもが生まれない妻サラはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハム
に差し出します。
アブラハムはハガルによって我が子イシマエルを得るのです。
そのアブラハムに対して、主が行動されます。
アブラハムの考えを主ご自身が砕かれるのです。
主は妻サラにこどもが生まれると言われます。
主の言葉に対して「そんなわけはないと」密かに笑うアブラハムとサラでした。
そんな二人なのに、主は約束を取り消されないのです。
「わたしを信じないのか、それならやめた」と言われないのです。
主はサラからイサクを生まれさせられました。
主がなさいます。
人は主のされることを体験します。
その繰り返しによって、人は主の約束を信じることが出来るようになるのです。
神様は約束したことを実現させる力をお持ちの方だと、確信出来るように、主
がしてくださるのです。
人は、神様から義としていただける信仰、を持つことができません。
アブラハムだってそうです。
主がしてくださるのです。
 
●私達の信仰
パウロがアブラハムの信仰を語るのは、私達のためです。
私達が信仰によって義とされるためです。
私達が信じるのは、不信心な者を義とされるお方です。
わたしもすべての人々も、まことに不信心な者です。
神様は不信心な者を救うために、キリストを立て、その血によって罪を償う供え
物となさいました。
ここには、人の行いが入り込む隙間はほんの少しもありません。
すべて神様がなさったことです。
旧約の時代は、メシアによる救いは神様の約束でした。
この約束はイエス・キリストによって実現しました。
新約の時代に生きる私達は、すでに実現している出来事を受け入れるのです。
それが、信仰です。
わたしは、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償
で義とされることを受け入れるのです。
そうすることによって、わたしは神様との正しい関係、あるべき関係に入ること
ができます。
このことを、人は信仰によって義とされる、と言うのです。
●復活
イエス・キリストはすべての人々の罪を負って十字架に死に、すべての人々の
罪を贖ってくださいました。
ただ死なれただけではありません。
人の罪を負って死なれたイエス・キリストを神様は復活させられました。
神様に対して死んでいた人々が、イエス・キリストの復活によって、神様の前に
生きることになったのです。
 
●神の業
神様の業は世の初めから今この時まで、ずっと続いています。
神様は何もなしに天地を作られました。
存在しないものを呼び出されて存在させられたのです。
神様はアブラハムとサラの子を生めないからだから、子供を生まれさせられま
した。
死んだから、だから、命が生まれたのです。
イエス・キリストは死なれました。そして復活されました。
すべての人々は罪のために死んだ存在でした。キリストによって罪赦され生き
返りました。
 
●完成に向かって
神様の業は、今この時から、さらに先へと続いていきます。
私達の肉体は死にます。
でもその先に復活の命が約束されています。
今なお死が支配している世界に私達は生きています。
けれどもその先に救いの完成が約束されています。
黙示録にそれが示されています。
私達は神様の約束を信じて、今の時を生きています。
 
●これまでの歩み
これまでの歩みを振り返ってみましょう。
私達は、主イエス・キリストをわたしの救い主と信じたのでした。
でもこれまでの信仰は、可能性の中での信仰だったのではないだろうか。
わたしは今、困った状態になっている。
こうなってほしい。
その願っている事柄は、この世で起こりうる事柄です。
自分がそうでないだけです。
世で起こりうる事柄の枠の中で神様の業を求めてきたのではないでしょうか。
神様から約束をいただいています。
その約束を疑っているわけではありません。
けれども神様の約束はこういうことなのではないかと、自分であれこれ考えて
行動してきたのではないか。
神様から「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」という約束をいただいたアブラハ
ムが、ハガルによって子を得たように。
 
●本物の希望 
若い時は、自分で色々なことが出来ます。
神様の約束を信じることが、自分で何かをすることになっていきます。
けれども年を重ねると、可能性が少しづつ減っていきます。
そして自分の可能性が全く絶たれるのです。
その時私達は神様の約束を聞きます。
アブラハムが「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」と言われたよ
うに。
この時に聞く神様の約束は、神様にある希望を生みます。
自分の可能性がなくなればなくなるほど、神様にある希望が膨らんでいくので
す。
希望するすべが全くなくなった時にも、なお主にある望みを抱いていくようにさ
れるのです。
神様は私達の信仰を導いて、失われることのない希望へと引き上げてください
ます。
●願い
私達は願います。
わたしの信仰が弱まらないように。
不信仰に陥って神様の約束を疑うことがないように。
神様は約束したことを実現させる力をお持ちの方だと、確信できるように
希望するすべもない時、なおも望みを抱くことが出来るように。
●主の業
わたしの信仰はわたしが支えているのではありません。
神様が支えてくださっているのです。
わたしはどこまで行っても不信心な者です。
その不信心な者を救ってくださるのは神様の一方的な業です。
まず主が約束されます。
わたしはその約束を信じます。
主の約束を信じた時、希望が生まれます。
わたし自身は希望を失います。
でも、そのところでなお希望を見させてくださるのです。
主にある希望は失われることはありません。
 
●結語
主は今日も私達を、信仰に生きるようにと、導いてくださっています。
ページの上に戻る

トップページ 教会紹介 集会案内 周辺地図 こどもの教会 お知らせ リンク メッセージ゙
             今までのメッセージはこちらから