<メッセージ> |
●正しい者は一人もいない |
聖書は言います。 |
「正しい者は一人もいない。」 |
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この言葉は、ああそうですか、と簡単に受け入れることが出来る言葉ではあり |
ません。 |
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私達は、自分は正しいと思っているのです。 |
自分の考えや主張は正しいのですから、それを押し通そうとします。 |
自分は正しいのですから、ほかの人を非難したり裁いたりするのです。 |
それなのに「正しい者は一人もいない。」と言われるのですから、不愉快に思 |
い、反発を感じます。 |
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あるいは、自分は正しいと言えるほど立派な人間ではないけれど、世の中に |
は正しい人が居るではないか、と思う人も多いでしょう。 |
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人だけではありません。 |
国が、組織が、宗教が、思想が、みんながみんな「自分達は正しい」と言い張 |
っています。 |
正しいと正しいがぶつかって、話し合いをしたりお互いにわかり合うことが出来 |
ない状況を生み出しています。 |
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「正しい者は一人もいない。」 この言葉はわたし自身を根底から揺れ動かし、 |
世の中を全く変える言葉です。 |
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●基準 |
正しいと言うとき、そこには必ず基準となるものがあります。 |
その基準に照らし合わせて、わたしは正しい、あの人は正しくないと判断する |
のです。 |
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これまで読んできたローマの信徒への手紙2章には、ユダヤ人には律法が |
与えられている、ギリシャ人には、文字による律法が与えられていなくても、 |
律法が要求する事柄がその心に記されている、と書かれていました。 |
ギリシャ人という言い方は、神様を知らない人達、異邦人と言われている人達 |
全体を表わしています。 |
人は律法が要求している事柄によって、正しいか、正しくないかの判断がされ |
るのです。 |
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●皆、罪の下にある |
この基準に基づいて判断するとどうなるか、 |
「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある。」 |
正しい者はいない、一人もいない。 |
となるのです。 |
これが結論です。 |
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パウロはユダヤ人に向かって語っていきます。 |
ユダヤ人は誰よりも、自分達は正しいと思っている人達だったからです。 |
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旧約聖書の詩編の言葉が引用されています。 |
「正しい者はいない。一人もいない。 |
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。 |
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの |
一人もいない。」 |
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これは詩編14編の言葉です。 |
53編にも同じ言葉が書かれています。 |
「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいな |
いか、と。 |
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとり |
もいない。」 |
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パウロは、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある。」ということの根拠とし |
て詩編を示しているのです。 |
詩編にだって「正しい者はいない。ひとりもいない。」 |
と書いてあるじゃないか、というわけです。 |
ユダヤ人達が生きるよりどころとしている聖書という同じ土台に立ってパウロ |
は語ります。 |
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●何が違うか |
ユダヤ人達の思っていることと、パウロが言うこととは、どこが違うのでしょうか。 |
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当時の人々は、ギリシャ人、すなわち神様を知らない人達は正しくないけれど、 |
自分達ユダヤ人は正しいと思っていたのでした。 |
13節から18節にかけて引用されている言葉は、詩編やイザヤ書からの引用 |
です。 |
これらの箇所では「のどは開いた墓のようであり、舌で人を欺き、その唇には |
蝮の毒がある」のは異邦人なのです。 |
「口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨が |
ある」のは、異邦人なのです。 |
「平和の道を知らない」のは、異邦人なのです。 |
なぜなら彼らの目には神への畏れがないからです。 |
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自分達はそうではない。 |
自分達は神様を知っている、 |
律法を持っている、と思っていました。 |
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それに対してパウロは言うのです、「否」。 |
「すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられている。」 |
と言います。 |
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律法によって裁かれるのはあなたたち律法の下にある人達だ、 |
とパウロは言います。 |
あなたたちは、自分達は神様を知っている、律法が与えられている、自分達は |
神様の前に正しく生きていると言っている。 その口が、律法によってふさがれ |
る、と言います。 |
ユダヤ人もギリシャ人も、すなわち、神様を知っている人も知らない人も、全世 |
界が神の裁きに服するのです。 |
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すべての人が律法によって、神様に裁かれます。 |
その時、誰が、あなたは正しい、と言ってもらえるというのでしょうか。 |
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●律法を引き下げる |
ユダヤ人達はどこから間違ってしまったのか。 |
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3章1節には |
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。 |
それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだね |
られたのです。」 |
とありました。 |
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ユダヤ人は律法というはっきりとした基準を神様からいただいた民です。 |
特別に選ばれた民です。 |
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民はまじめに、真剣に律法を実行することに努めたのでした。 |
律法を破れば神様に滅ぼされるのですから、それはそれは熱心に実行しよう |
としたのです。 |
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律法を実行しなければいけない。 |
そうしないと救われない。 |
その真剣さが、律法を実行できる程度に引き下げることを生んだのでした。 |
律法を引き下げることによって、自分達は律法を守っている、だから正しい、 |
と思うようになったのです。 |
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このことをイエス様は厳しくとがめておられます。 |
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受 |
ける』と命じられている。 |
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。 |
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火 |
の地獄に投げ込まれる。」 |
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このあとまだ続きます。 |
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●パウロの体験から |
律法を引き下げ、自分達は実行している、自分達は正しいと思っている人達 |
に、パウロは言います。 |
「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」 |
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この言葉は、パウロの思索や聖書の研究から出てきた言葉ではありません。 |
これはパウロが実際に体験して得たことです。 |
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パウロは完璧に律法を実行しようと努めたのでした。 |
そして自分は律法を正しく行なっていると思っていたのでした。 |
フィリピの信徒への手紙で言っています。 |
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン |
族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派 |
の一員、 |
熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者 |
でした。」 |
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そのパウロが復活のイエス様に出会いました。 |
そして知りました。 |
今まで自分がしがみついていたものは、なんと空しいものであったか。 |
彼は言います。 |
「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすよ |
うになったのです。 |
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、 |
今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失 |
いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」 |
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律法を実行していると思っていたのは間違いだった。 |
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないのだ。 |
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パウロは言います。 |
「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」 |
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パウロの実感です。 |
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●罪の自覚 |
「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」 |
この言葉を軽々しく受け取ってはなりません。 |
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人生すべてをかけて律法を行おうと実際にした人だけが、わかることです。 |
本気になって真剣に律法を実行しようとしたこともないのに、わかった気になっ |
てはなりません。 |
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「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」 |
行き詰まり絶望したところから出てくる言葉です。 |
本気になって真剣に律法を行おうとすればするほど、出来ない自分が見えて |
くるのです。 |
自分は信仰を持って正しく生きていると思っている人は、いい加減にしか従っ |
ていないのです。 |
そういう人には罪の自覚が生まれません。 |
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●キリストの救い |
罪の自覚が、人をキリストの救いへと導きます。 |
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「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。 |
律法によっては、罪の自覚しか生じない。」 |
このことを心底体験した時、福音の真髄に行き着くのです。 |
24節 |
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とさ |
れるのです。」 |
これがパウロの言いたいことです。 |
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パウロが生きて、体験して得た福音の真理、 |
パウロが人生のすべてをかけて生きた福音の真理がここにあります。 |
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●教会 |
このキリストの福音から、教会の歩みが始まります。 |
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様々な苦難や困難に会いながらも、福音は地の果てまで宣べ伝えられました。 |
東ヨーロッパに向かったのが東方教会、ギリシャ正教・ロシア正教などです。 |
西ヨーロッパに向かったのが西方教会、ローマ・カトリック教会です。 |
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●ルター |
1500年が過ぎていきました。 |
一人の青年が、ローマカトリックの修道院に入りました。 |
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彼は熱心に修道生活を送り祈りを捧げましたが、どれほど熱心に修道生活を |
送り祈りを捧げても、心の平安が得られないのでした。 |
彼はやがて司祭の叙階を受け、大学で哲学と神学を教え、神学の博士号も |
取得しました。 |
けれども彼の心の中の恐れは取り除かれないままでした。 |
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いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善い業を |
行ったとしても、神の前で自分は義である、自分は正しいと確実に言うことは |
できない、と苦しみ続けました。 |
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苦しみ続けていた彼はあるとき突如として光を受けたように新しい理解が与 |
えられるという経験をしたのです。 |
『ローマの信徒への手紙』を通してでした。 |
人間は行いによってでなく、信仰によってのみ義とされる、 |
人間を正しいものであるとするのは、すべて神の恵みであると悟りました。 |
彼はやっと、心の平安を得ることができたのです。 |
ローマ書の告げるキリストの福音から聖書を読み直した時、彼は大きな心の |
慰めを得ることができました。 |
するとわかってきたのです。 |
教会は長い歴史を辿る中で、間違いを造り出してきている。 |
彼はその間違いを指摘しました。 |
この人が、マルチン・ルターです。 |
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ルターもまた、パウロと同様、律法を実行することに努め、苦しみ抜いて、つい |
にキリストの福音に到達したのでした。 |
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キリストの福音に立つ時、教会がいつの間にか身につけた誤りに気付きます。 |
キリストのみ。 |
そのようにして教会は正されていくのです。 |
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●正される |
今私達はローマの信徒への手紙を読んでいます。 |
「正しい者はいない。一人もいない。」 |
まことに、その通りです。 |
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「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。 |
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」 |
まことにその通りです。 |
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この事実は私達を罪の滅びに陥れるためにあるのではありません。 |
どんなに努めても努めても律法を実行することが出来ない、自らの取り去る |
ことが出来ない罪に気付いた時、初めてキリストの十字架が見えてきます。 |
この場所からしか、キリストの福音は聞こえてこないのです。 |
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●結語 |
私達はキリストの福音だけを聞いていきます。 |
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わたし自身も、教会も、世の中も、すべてのものが間違いを犯しています。 |
正しい者は一人もいません。 |
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キリストだけです。 |
すべての罪を負って罪を贖ってくださるのはキリストだけです。 |
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私達はキリストだけを見つめて、この世を生きていきます。 |
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私達人間は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 |
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とさ |
れています。 |
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