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礼拝メッセージ 2016年 8月7日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
マルコによる福音書 12章28節〜34節 「愛するということ」
〈聖書(新共同訳)〉
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派に
お答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一
  でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、
  聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神で
ある主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つ
にまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一
である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人
を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけ
  にえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国
  から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
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<メッセージ>
●分かっている?
私達が使う言葉の中には、聞いただけでなんとなくわかったような気持になる
言葉があります。
「愛」とか「平和」とかいう言葉がそうです。
話の中で、こういう言葉が出てくると、それでもうわかったような気分になり、な
んとなく納得するのです。
聖書には、「愛」という言葉がたくさん出てきます。
「神は愛である。」
そうだ、そうだ、と思う。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を
愛しなさい。』
『隣人を自分のように愛しなさい。』
そうだそうだ、それが最も肝心なことだと思うのです。
わかった気分になる。
それで終わりです。
律法学者の質問
イエス様はひとりの律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
と質問したのに対して、
「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を
愛しなさい。』
『隣人を自分のように愛しなさい。』
を挙げて、
「この二つにまさる掟はほかにない。」
と言われました。
 
マタイによる福音書とルカによる福音書では、律法学者がイエス様を試そうと
して尋ねたとされていますが、マルコによる福音書では、イエス様が立派に話
されるのを見て尋ねたと記されています。
律法学者の中にも、イエス様の言葉に真理を見出す人がいたのです。
 
この人は、
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃっ
たのは、本当です。
そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分の
ように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れてい
ます。」
と言いました。
●旧約の掟
この2つは旧約聖書に記されている掟−律法です。
申命記6章には
「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
と記されています。
これに続いて
「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも
起きているときも、これを語り聞かせなさい。
更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
と記されています。
イエス様の時代の人々も、この通りにしていました。
また、レビ記19章には
「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼
の罪を負うことはない。
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛する
ように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
と書かれています。
●十戒の集約
この二つは律法の大元であるモーセの十戒を集約しています。
十戒の初めの4つ−神様に関する戒めは 「あなたの神である主を愛しなさ
い。」に、
あとの6つ−人々が暮らす上での戒めは
「隣人を自分のように愛しなさい。」という言葉に集約されます。
 
●知っている
イエス様を試そうとして尋ねた律法学者達だって、この2つが最も大切な掟で
あることが分かっていたのです。
彼らは、この掟を守っている、だから自分達は神様に受入れられていると思って
いました。
 
でも彼らは分かっていなかったのです。
人々はみんな分かっていませんでした。
分かっていると思っていましたが、分かっていませんでした。
「愛する」ということがどういうことか、分かっていません。
●キリスト
私達はイエス・キリストによって初めて「愛する」とはどういうことかを知るのです。
イエス様はこのあとまもなく捕えられ、十字架にかけられて死なれました。
ヨハネの手紙一4章の言葉です。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生き
るようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪
を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 
●無条件の受容
まず神様が私達を愛してくださったのです。
 
私達が神様を愛したから、神様が私達を愛してくださるのではないのです。
私達が掟を実行したから、愛してくださるのではないのです。
 
掟を実行したら、愛してあげるよ、というのではないのです。
どのような条件も無しに愛されるのです。
『あなたがどのような人間であっても、わたしはあなたを愛する。』
無条件の受容、これが愛です。
けれどもそのために神様はどれほどの犠牲を払わなければならなかったこと
でしょうか。
愛する御子イエス・キリストを、私達の罪を償うためのいけにえとされたので
した。
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●神を愛する
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神である主を愛する」
ということは、神様がわたしを無条件で受容してくださっていることを、わたしも
無条件に受入れることです。
神様の愛をそのままいただいていくことです。
神様がこのわたしを条件なしに受け入れてくださっている、このことを受け入れ
ることが、神を愛するということです。
 
心も、精神も、思いも、力もわたしのすべてを神様に明け渡します。
あるがままの自分で、神様のふところに飛び込むのです。
キリストの愛がわたしを抱きしめてくださいます。
 
●間違っていた
私達は何と長い間、思い違いをしていたことでしょうか。
何かの条件を満たさなければ神様は愛してくださらないと思っていました。
そのため、自分が正しい人間になることに懸命でした。
そして、自分は掟を守っていて正しい人間だから、神様に受け入れられている
と思うようになりました。
その一方で掟を守れない自分に不安を感じていました。
掟を守っていないわたしは神様に受け入れていただけないと思い、掟を守る
ことにますます熱心になりました。
掟を守ることに熱心になればなるほど、掟を守れない人達を批判し裁くように
なりました。
そんなわたしでさえ、神様は受入れてくださるのです。
キリストの十字架の意味が、やっと分かりました。
キリストがおられるから、キリストが十字架にかかってわたしの罪を贖ってくだ
さったから、わたしは生きることができるのです。
 
まるごと受入れてくださる神様に抱かれて、安心を得ました。 この安心の中で、
私達は新しく生きはじめます。
あるがままの自分を受入れて、ただただ神様の愛に身を委ねていくのです。
●隣人を愛しなさい
そのような私達に、神様は優しく語りかけられます。
「わたしはあなたを愛している。
だからあなたも、周りの人達を愛して生きていきなさいね。」
『隣人を自分のように愛しなさい。』という言葉を掟として聞いていた時には、もっ
ともな言葉だと思っていました。
良い言葉だ、自分もこの言葉に従って生きようと務めていたのです。
誰だって自分が一番かわいいのです。
自分の命を守ることが一番です。
自分が安全で、気持よく、楽しく、幸せに暮らせることが一番の求めです。
人が自分の考え通りに動いてくれれば満足します。
自分は自分に対してそのように思っているのだから、隣人を自分だと思って尽
くしてあげればいいのだ、と思います。
隣人の命を守る、隣人が安全に、気持よく、幸せに暮らせるように精一杯のこ
とをしてあげる、そうすることが『隣人を自分のように愛しなさい。』ということだ
と思います。
 
この掟は大変だけれども実行できる掟です。
掟ですからそれに従って生きなければなりません。
そのようにして自分を犠牲にしてまで人に尽くすことはすばらしいことです。
そうしている人々には本当に頭がさがります。
 
●神の受容の中で
けれども神様が私達にくださっている愛は、少し違うようです。
神様は条件無しにわたしを受入れてくださっているのです。
「わたしはありのままのあなたをそのまま受入れているよ。だからあなたも他
の人をありのままに受入れようね。」
と言われているのです。
 
難しいことです。
私達は相手に対して何かしらの自分の思いを持っています。
夫に対し、妻に対し、子に対し、親に対し、あの人、この人に対し、こうあって
欲しいという思いを持っているのです。
自分の思っているとおりの相手になって欲しいと思っているのです。
相手を自分の思い通りさせようとします。
そのことが相手にとっても良いことだと思うほどに、自分の思いを押し通したい
のです。
それほど私達は自己中心なのです。
自分の求めを相手が満たすなら、受入れる。
私達はいつも条件付で相手を受入れているのです。
自分の意に適わない相手をそのままに受入れることなどとてもとても出来ませ
ん。
私達はこうも思います。
あるがままの相手を受入れたら、その人は自分のいけないところ、間違ってい
るところが分からないままではないか。
いい気になって、ますますひどくなるにちがいない。
だから間違いを指摘してあげるんだ。
それが愛だ。
そう思って条件を付けて受入れるのです。
でも、そうではないのです。
まるごと自分が受入れられている安心があると、その人自身で変わっていくの
です。
私達自身が、神様からまるごと受入れていただいた安心の中で、新しく生きら
れるようになったことを体験しているはずです。
 
●掟ではない
『隣人を自分のように愛しなさい。』を掟として受け取っていた時は、すばらしい、
わたしもそうしよう、と思いました。
けれども、そんなに簡単なものではないことが分かってきました。
これを行なうことが神様に愛していただくための条件ならば、わたしは神様に
愛していただけない者であることが分ってきました。
『隣人を自分のように愛しなさい。』は掟ではありません。
神様に受入れていただくための条件ではありません。
神様は「そうしないと受入れないよ」とは決して言われないのです。
相手をありのままに受入れることができないこのわたしを、神様はそのまま受
入れてくださっているのです。
キリストの十字架の赦しゆえにです。
そして
「わたしはありのままのあなたをそのまま受入れているよ。だからあなたも他の
人をありのままに受入れようね。」
と言われるのです。
 
●なりたい
私達も他の人をありのままに受入れられるようになりたいです。
でも、そう出来ない自分がいます。
そういう私達を、神様はそのままに受入れてくださっているのです。
この安心の中で、私達自身が変えられていきます。
少しずつ、人をあるがままに受入れられるようになっていくでしょう。
 
●結語
神様の声が聞こえます。
「大丈夫。わたしはあなたをまるごと受入れている。」
 
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