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礼拝メッセージ 2016年5月8日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
マルコによる福音書 11章 12節〜19節 「すべての民の祈りの家」
〈聖書(新共同訳)〉
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいない
  かと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではな
かったからである。
11:14  イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べ
る者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そ
こで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者
の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたし
の家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』、とこ
ろが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18  祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにし
殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らは
  イエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
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<メッセージ>
●御言葉
聖書の御言葉は、私達を変えます。苦しくて、つらくて、どうすることも出来ない
時に、御言葉が慰めを与え、そこを通り抜けられるようにしてくれます。
思い煩いでがんじがらめになっている時、心を解きほぐして安らかな心にして
くれます。
そういうことを、私達はこれまでに幾度も体験してきたのでした。
御言葉は、私達が囚われているものから私達を解き放ってくれます。
その時初めて、自分がこれまでどれほど自分の思いや考え方に固まっていた
かに気付きます。
 
御言葉はそのようにして、私達を変えてくれるのです。
御言葉がぶつかる
しかし御言葉はまた別のやり方で私達を変えてくれます。
それは私達の思いや考えとぶつかることによって、これまでの私達の考え方を
砕くというやり方です。
 
聖書に記されていることが、自分の持っている考えに沿っている時には、私達
はすんなりと聖書の言葉を受入れることができます。
そうだ、そうだ、と納得するのです。
この時は、自分の考え方が主体であって、その枠組みの中で聖書の言葉や
出来事を受け取っています。
ですから自分が変わるということは起こってきません。
 
でも聖書には、時として「あれ、これってどういうこと?」と思うことが出てきます。
この時こそ、自分が変わるチャンスなのです。
御言葉は、私達がこれまで普通だ、当たり前だと思っていたことを砕き、新しい
考えに導こうとしているのです。
 
あくまでも自分の考え方に留まって、聖書には理屈に合わないことが書いてあ
ると聖書を捨てる、または、何とか合理的に説明しようとするのか、
それとも御言葉に砕かれて自分の考え方が変わるのか、
重要な分かれ目です。
●いちじくの木
今日の聖書の箇所は、私達にぶつかってきます。
私達は、イエス様がされた事は納得いかないと思うのです。
イエス様はいちじくの木に実がなってはいないかと探された、 ところが葉の他
には何もなかった。
「いちじくの季節ではなかったからである。」
と説明されています。
この時期に実がなるはずはないのです。
それなのにイエス様は「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないよ
うに」
と言われた、
そして今日の箇所の続き20節には、いちじくの木が根元から枯れていた、と
記されているのです。
 
実のなる季節ではないのに実を求めるイエス様の方がおかしい、
それなのに、その木を呪って枯らしてしまうなんて、いちじくの木がかわいそう
だと思うのです。
●神殿でのこと
続いて、イエス様が神殿でなさったことが記されていきます。
いちじくの話が額縁のようになって、神殿での出来事が記されています。
神殿でのイエス様のなさりようも、私達の目には異常に映ります。
私達は、イエス様は優しく慈悲深く温かいお方だと思っている、
それなのに神殿で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る
者の腰掛けをひっくり返された。
暴力を振るっておられるのです。
 
正しい献げ物をするために必要なお店なのに、それをひっくり返すなんておか
しいと思う、
私達の思っているイエス様像に合いません。
 
聖書の記すことが私達にぶつかってきています。
今こそ私達が変えられる時です。
●神殿
イエス様はついにエルサレムに入られました。
そして神殿の境内に入り、辺りの様子を見てまわられました。
そこでイエス様は何をご覧になったのでしょうか。
 
そこには立派な神殿の建物がありました。
13章で弟子が
「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
と言っています。
折しも過ぎ越の祭りの時期に当たっていました。
たくさんの巡礼の人々が神殿に押しかけて賑わっていました。
 
両替人の店や、犠牲に献げる動物を売る店がたくさん出ていました。
人々はそこで売り買いをしていました。
 
エルサレムの神殿に巡礼にくる人達は、犠牲の献げ物をします。
持って来た動物やその他の品が献げ物としてふさわしいものであるかどうかを、
祭司に調べてもらわなければなりませんでした。
ですからあらかじめ調べられた上で神殿で売られているものを買った方が便利
だったのです。
 
また、神殿に税金を納めなければならないことになっていました。
神殿税は古いヘブライ貨幣かティルス貨幣で納めなければなりませんでした。
当時はローマ帝国に支配されていましたから、通貨はギリシャやローマの貨幣
でした。
ですから両替人は必要だったのです。
●問題を感じない人々
神殿に犠牲を献げるために来た信仰熱心な人々、
その人達の便宜を図るためにお店を出している人々、
神殿に仕える祭司たち、
 
誰もかれも、自分達は神様に従っている、信仰熱心な正しい人間だと思ってい
ました。
けれどすべては葉が茂っているけれど実を結ばないいちじくの木だったのです。
どんなに立派な建物があろうと、どんなに人が集まっていようと、どんなに自分
達は神様の前に正しい人間だと思っていても、それらのものは実を結ぶことが
ないのです。
 
●間違っている
いつの間にか人々は道を大きく踏み外していました。
イスラエルの民は神様が特別な使命を与えられた民、選ばれた民です。
この民は、神様の祝福の源になるために選ばれました。
この民に注がれた神様の祝福があふれ出し、すべての民が神様の祝福に入る
ことを、神様は願われたのです。
けれどもイスラエルの民は神様に従うことが出来ませんでした。
その長い長い歩みが旧約聖書に記されています。
ついにイスラエルは滅亡し、人々はバビロンに連れて行かれました。
それから50年経って、人々はエルサレムに帰ってくることができました。
帰ってきた民は、バビロン捕囚は自分達の背きの罪故であったと反省し、これ
からは神様に対して罪は犯すまいと、厳格に律法を守るようになったのです。
神様の前に正しくありたいと願って始めたことでした。
けれども人々は、いつしか、正しい者と正しくない者との間に線引きをするよう
になったのです。
 
「自分達は正しい者だ、あいつらは神様に罪を犯している汚れた者だ」と人を裁
きます。
汚れが移らないようにと、汚れている人と決めつけた人々とは決して交際しま
せん。
神様を知らない異邦人、汚れた職業に就いている人、汚れた病気を煩っている
人、そして女性は排除される人々でした。
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●当時の神殿
神殿もそうだったのです。
神殿に入れるのはユダヤ人の男性のみです。
その外に婦人の庭があり、女性はそれより奥に入ることは出来ません。
さらに婦人の庭の外に異邦人の庭がありました。
異邦人が入れるのはここまでです。
 
この異邦人の庭に人々は犠牲の動物を売る店や両替人の店を出して商売して
いたのでした。
異邦人は神殿から閉め出されました。
 
そういうことがずっと続いていたのでした。
そのことにだれも疑問を感じない、問題を感じない。
当たり前に犠牲の動物を買って献げ、両替をして神殿税を払う、
礼拝するのに便利でよいやり方だ、と思っている。
そして神様を礼拝したと満足して帰る。
 
●すべてをひっくり返される
イエス様はこのすべてを、ひっくり返されるのです。
イエス様はイザヤ書56章の言葉を引用して
『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』
と言われました。
イエス様はすべての人々を神様のもとに連れて帰るためにこの世に来られた
のでした。
イエス様は人々が作り上げてきた神殿を壊されます。
人々が作り上げてきた隔てをすべて壊されます。
神様の家は、すべての人々が集い、祈ることが出来る家なのです。
神様はすべての人々を受入れておられるのです。
救われるのです。
 
それを妨げているものは、すべて壊し取り除かなければなりません。
 
イエス様はこれまでのやり方を修正されるのではないのです。
間違っている部分を正されるのではないのです。
すべてを打ち壊されます。
全く新しいものを打ち立てるためです。
すべて砕き去らねばならないほどに、人々が長い歴史の中で造り上げてきた
ものは、全く神様の御心からはずれたものになってしまっていたのでした。
実を結ぶことが出来ないいちじくの木は切り倒されるほかありません。
 
●イエスを殺す
それなのに人々はそのことに全く気付いていませんでした。
自分達は律法を守っている、自分達は正しい者だ、と思っていました。
ですから、祭司長たちや律法学者たちは、イエス様を殺そうと思うほどに、イエ
ス様を憎んだのです。
彼等はイエス様を殺しました。
自分達は正しいと思う考えは変わることはありませんでした。
けれども彼等が切り倒した木から、新しい芽が生れたのです。
イエス様は復活されました。 新しい世界が打ち立てられました。
 
●私達
私達は間違った考え方、生き方をしていないでしょうか。
私達はこの社会に生きています。
世が造り上げてきた価値観、ものの考え方に従っています。
そのことに疑問を感じることなく、自分は正しく生きていると思ってきました。
信仰を持った後でも、いつのまにかこの世の価値観、考え方が私達を支配しま
す。
そしてそのことに気付かないでいます。
信仰の世界でも言えることです。
ただただキリストの十字架の贖いによって無条件に赦されている喜びと感謝で
始めたはずなのに、信仰生活を重ねていくうちに色々なものが入ってくる、
葉を茂らせることに目が向いていき、そのことに熱心になる、いつの間にか
ずれた方向に向かっているのです。
 
●外から
でも私達はそれに気付くことが出来ません。
自分は信仰を持っている、救われていると思っているのです。
自分の間違いに気付かないのですから、自分で直すことが出来ません。
私達は、外から正される必要があります。
神様に正していただく必要があります。
 
自分の考えや生き方が打ち破られるのは嫌なことです。
自我が砕かれることは痛いことです。
 
でもイエス様が切り倒されるのは、私達を滅ぼすためではありません。
本当の命に生きさせるためです。
 
●本当に大切なもの
本当に大切なものは何なのか。
砕かれ、余計なものが取り除かれることによって、本当に大切なものがわかっ
てきます。
 
今まで何と枝葉のことにこだわってきたことでしょうか。
そのために労力を使い、悩み傷つき、疲れていたことでしょうか。
大切なものはただ一つ。
私達を生かしてくださるのは、イエス・キリストだけです。
ご自分の命を捨ててまで、私達を愛してくださるのはイエス・キリストだけです。
主イエス・キリストだけを見ていくのです。
するとまわりのものが消えていきます。
わたしを縛っていた諸々のものが消えていきます。
 
●結語
今日の聖書の言葉は、わたしたちとぶつかります。 
イエス様は私達にぶつかってこられます。
 
イエス様がわたしにぶつかり砕かれる時こそ、わたしが変えられる時です。
今私達は砕かれ、キリストの新しい命に生き始めます。
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