トップページ 教会紹介 集会案内 周辺地図 こどもの教会 お知らせ リンク
メッセージ
今までのメッセージはこちらから
礼拝メッセージ 2016年4月17日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
詩編 37編 23節〜29節 「安心」
〈聖書(新共同訳)〉
37:23 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。
37:24 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていて
  くださる。
37:25 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない、主に従う人が捨てられ、
  子孫がパンを乞うのを。
37:26 生涯、憐れんで貸し与えた人には、祝福がその子孫に及ぶ。
37:27 悪を避け、善を行えば、とこしえに、住み続けることができる。
37:28 主は正義を愛される。主の慈しみに生きる人を見捨てることなく、とこ
しえに見守り、主に逆らう者の子孫を断たれる。
37:29 主に従う人は地を継ぎ、いつまでも、そこに住み続ける。
<メッセージ>
●主題・主題聖句
今日は礼拝の後に教会総会が開かれます。
2016年度の歩みを導く主題・主題聖句として「安心」「主は人の一歩一歩を
定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」
が提案されます。
これは3月のチャーチミーティングで、投票で選ばれたものです。
この主題と主題聖句は、私達運河キリスト教会の信仰告白でもあります。
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」
という聖句に「安心」という言葉を結びつけました。
 
「私達が安心していられるのは、主が私達の一歩一歩を定め、御旨にかなう
道を備えてくださっているからです」という信仰の告白です。
この告白は、これまでの歩みの中で体験してきたことから生まれてきました。
 
そこから
「主が私達の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださっているから、
安心していていいのだ」という、これから先の安心が与えられます。
 
この主題聖句は、高く掲げてそれに向かって歩んでいこう、といった聖句では
ありません。
私達を丸ごと底から支えてくれる聖句です。
私達はこの聖句に下から支えられて、この1年を歩んでいきます。
詩編37編
この詩編を書いたのは、年老いた人のようです。
25節に「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない」
とあります。
詩人はこれまで生きて来た長い人生を振り返って、主に逆らう者の行き着く先
を語り、主に従う者の生き方を説いているのです。
37編の最初に「ダビデの詩」と書かれていますが、ダビデが書いた、と限定し
ない方が良いでしょう。
ダビデ自身が書いた詩、ダビデに献げた詩、後の人がダビデのことを題材に書
いた詩などがあるからです。
また「ダビデの詩」と記すことによって詩の権威を高める、という事情もありまし
た。
 
そして初めに(アルファベットによる詩)と書かれています。
日本風に言えばイロハ歌なのです。
詩の各行のあたまが、ヘブライ語のアルファベットの文字順になっています。
23節は、英語で言えばMに当たる文字で始まっています。
ですから、37編は詩として一つの流れになっているいうよりも、独立した文章
が書き連ねられた形になっています。
●安心ー誰もが願う
安心して暮らしていきたい、これはすべての人達が願っていることです。
誰もが平和に穏やかに生きていきたいと願っています。
安心を手に入れたいと思って一生懸命に努力し、がんばっているのです。
 
人々はどこに安心を求めているのでしょうか。
健康であることはもっとも基本的な事柄です。
健康であれば、働くことが出来ますし、したいと思うことをすることが出来ます。
ですから様々な健康法が紹介されています。
けれども病気はなくなりません。
突然病に倒れることがあります。
年をとれば誰でも病気がちになります。
経済的な安定も安心を得るための大切な要素です。
この社会で生きていくためには、どうしてもお金が必要です。
経済的にゆとりがあれば、安心して暮していけます。
老後を安心して過ごせるようにと、蓄えをします。
でも豊かな日本の中で、貧困が起こってきています。
若い人達の貧困、特に女性達、シングルマザー達の貧困、それが子供の貧困
になり、貧困の連鎖を生み出しています。
 
誰もが安心して生きていきたいと願っているのに、望んでいるものを手に入れ
ることが出来ない社会です。
そのために競争が起こり、争いが起こり、奪い合いが起こっています。
心が追い詰められて、不満を感じ、憎しみを抱き、殺し合うのです。
無差別殺人、テロ、戦争等、誰かが襲ってくるのではないかという不安がいつ
もあります。
全ての人が、安心して暮らしていきたいと思っているのに、そうできない社会の
中に私達は生きています。
●詩編
それは、今日の詩編が書かれた時代も同じでした。
1節には、悪事を謀る者、不正を行う者
7節には、繁栄の道を行く者、悪だくみをする者
9節には、悪事を謀る者
12節、14節には、主に逆らう者はたくらみ、牙をむく。
剣を抜き、弓を引き絞り、貧しい人、乏しい人を倒そうとし、まっすぐに歩む人を
屠ろうとする。
などと記されています。
 
●安心
この不安だらけの世で、どうすれば安心して生きていけるのでしょうか。
「安心」は漢字で「心が安らか」と書きます。
安心は心の問題なのです。
 
健康で、経済的にも恵まれていて、物事がうまくいっていても、心が安らかでは
ないということが起こります。
今得ているものが失われるのではないか、とびくびくしている。
もっともっと必要だと、貪欲に動き回り、人を踏みにじってでも多くを手に入れよ
うとする。
心はまったく安らかではありません。
 
でも、健康が損なわれていても、経済的に苦しくても、物事がうまくいっていな
くても、なお心が安らか、ということがあるのです。
それは、「主がわたしの一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」と
知る時です。
●山登り
私はこの頃山登りをするようになりました。
登山ではなく、山登り、トレッキングと言うそうです。
道には歩きやすいように、木で歩道が作られている箇所があります。
尾瀬湿原の写真を見たことがあるでしょうか。
あのような木の歩道が山にも作られています。
でも全部がそうなっているわけではありません。
石がごろごろと転がっている石だらけの道の方が多いのです。
そういう所を歩くときはひたすら足もとを見ています。
周りの景色を楽しむ余裕はありません。
大小様々な石が転がっている中で、なるべく平らで足を置いてもひっくり返らな
そうな石を探して、一足一足、足を置いていくのです。
 
●人生
私達の人生は、足取り軽く花咲く野原をスキップしながら行く時ばかりではあり
ません。
つらくて苦しくて、一歩が踏み出せない時もあります。
その時、主が動けないわたしの前に膝をかがめて、「ほら、ここに足を置いてご
らん。大丈夫」と地面を示してくださるのです。
わたしの足をかかえるようにして、そこに置いてくださいます。
そのようにして、私達は一歩また一歩と、人生の岩場を登ってきたのでした。
 
●主がいてくださる
私達の歩く道は、木の歩道が出来ている道ではありません。
ずっと先まで見通せる道ではありません。
大小様々な石が転がっています。
一人でこの道を歩いていかなければならないと思っていた時は、不安で一杯で
した。
 
でも今は、主が一緒にいてくださることを知っています。
主がわたしのことを思って道を備えてくださっているのです。
 
安心です。
先が見えなくても安心です。
すべてをご存じの主が、わたしの一歩一歩を導いてくださっているのですから、
お任せしていて大丈夫なのです。
 ページの上に戻る
●居てくださる
そして私達の主は、私達を置いてどこかに行ってしまわれるお方ではないの
です。
24節には
「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださ
る。」
とあります。
 
わたしが倒れてしまったとき、そのままにしてほって置かれる方ではありません。
そこに居続け、手をとらえ続けてくださるのです。
 
●footprints
先ほどfootprintsを歌いました。
よく知られている詩をもとにして作られた歌です。
もとの詩を簡単に訳します
−ある人の夢−
神様と並んで浜辺を歩いていた
空の向こうに、これまでの人生が映されている
砂の上には二つの足跡
一つはわたし
一つは神様
 
でも足跡が一つしかないところがある
それはとてもつらく、悲しい時だった
 
わたしは言った
「あなたはずっとわたしと一緒に歩いてくださると言われたのに、一つの足跡し
かありません。一番あなたが必要だった時なのに」
神様は言われた
「わたしはあなたを愛している。
あなたを決して見捨てない。
そのときわたしはあなたを負ぶっていた」
 
●本当の安心
主はどんな時も、わたしの手をとらえていてくださいます。
決して手を放すことはなさいません。
ここに本当の安心があります。
 
わたしが主の手をつかんでいるから、主がわたしと共にいてくださるのだったら、
いつも不安です。
手を離してしまうのではないか、と不安です。
そうならないように、腕の筋肉を鍛え、握力を鍛えなければなりません。
でもどんなにつかんでいようと思っても長くは続きません。
疲れて、力尽きて手を放してしまいます。
谷底に向かって落ちていきます。
でもそうではないのです。
主がわたしの手をつかんでいてくださるのです。
力尽きて、わたしが手を放してしまった時も、主は手をつかんでいてくださいま
す。
だから崖の下に墜落することはないのです。
だから安心なのです。
 
●信仰
自分の信仰に頼っていると、不安です。
もっと強い信仰を持たねばならない、もっと正しい行いをしなければならない、
と思います。
自分を打ちたたきます。
まだだめだ、まだだめだ、
信仰が弱い、疑いの心が湧いてくる、少しも良い行いが出来ていない。
自分は救われないのではないかと、不安が増すばかりです。
自分で主をつかもうとする信仰には、いつも不安がつきまとうのです。
そうではないのです。
主がわたしの手をつかんでいてくださるのです。
決して手を放すことはないのです。
わたしの信仰は揺らぎます。
わたしは握っている手を放す者です。
わたしが手を離して、まさに崖の下に落ちていく。
恐怖で頭の中は真っ白です。
ふと気付くと、不思議に落ちないでいる。
主がわたしの手を握ってくださっていたことがわかりました。
自分の信仰に頼っていたら、谷底に落ちていきます。
頼るべきはただ主のみです。
「主はわたしの手をとらえてくださっている」
ここに本当の安心があります。
 
●今年度
今私達は新しい年度を歩もうとしています。
先に何があるかは、わかりません。
でも安心していて大丈夫なのです。
 
私達の主は、私達を愛してくださっているお方です。
ご自身を十字架にかけてまで、私達を救ってくださった主です。
決して手を放すことはなさいません。
このお方が、私達の一歩一歩を定めてくださいます。
主が手を握っていてくださいます。
 
●今日を生きる
今日という日を、一日一日精一杯生きるのです。
そのようにして生きる時、本当に神様は、御旨にかなう道を備えてくださって
いることを実感することが出来ます。
 
私達ひとりひとりの歩み、そして教会の歩みを主は定めてくださっています。
先のことは心配しなくて大丈夫です。
今の時を、心安らかに生きていけます。
 
●結語
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださ
る。」
明かるいです。
暖かいです。
主がいてくださる安心が私達を包み込んでいます。
ページの上に戻る

トップページ 教会紹介 集会案内 周辺地図 こどもの教会 お知らせ リンク メッセージ゙
          今までのメッセージはこちらから