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礼拝メッセージ 2016年3月27日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
マタイによる福音書 28章 1節〜20節 「復活の希望」
〈聖書(新共同訳)〉
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリア
ともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2  すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を
わきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3  その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられた
イエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活な
さったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の
中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8  婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たち
知らせるために走って行った。
28:9  すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人
たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに
ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
28:11 婦人たちがいき着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事を
  すべて祭司長たちに報告した。
28:12  そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金
を与えて、
28:13  言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を
盗んで行った』と言いなさい。
28:14  もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがた
には心配をかけないようにしよう。」
28:15  兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日
に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
28:16  さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた
山に登った。
28:17  そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授
  かっている。
28:19  だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20  あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたし
  は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
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<メッセージ>
●主イエスはよみがえられた
明けない夜はありません。
光が差し込まない闇はありません。
死の闇に閉ざされた墓に、復活の光が差し込みました。
主イエスはよみがえられました。
見よ
聖書は「見よ」と言います。
日本語の聖書でははっきりしませんが、原文ではこうです。
2節「すると見よ、大きな地震が起こった」
7節主語を補って訳すと「イエスは死からよみがえらされた(過去形)見よ、
あなたがたより先に行かれている(現在形)。見よ、わたしはあなたがたに伝え
た」
9節「すると見よ、イエスが彼女達に出会った」
11節「彼女達の先に行って、見よ、番兵達のある者達が町に入って伝えた」
20節「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
「見よ」
およそ人が考えられない、ありえないことが起こっているのです。
「見よ」
十字架に死んで墓に葬られたイエス様が復活されたのです。
 
死んでしまった人が、生き返ることなどあり得ません。
そのことは、すべての人々が涙を流し胸を引き裂かれながら体験してきたこと
です。
泣いても叫んでも、その人はもう目を開かない。
生き返って欲しい・・・
でもそういうことは決して起こらないのです。
 
ですから「見よ」なのです。
●恐れる
それは、長い暗い夜が終り、最初の光が差し込んだ夜明けに起こったのでした。
大きな地震が起りました。
主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったからです。
イエス様の弟子達がイエス様の遺体を盗むことがないように、番兵がイエス様
のお墓を見張っていました。
番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。
 
イエス様のお墓にはマグダラのマリアともう一人のマリアが来ていました。
ふたりも恐ろしさに震え上がったに違いありません。
●恐れることはない
このふたりに天使が言うのです。
「恐れることはない。」
 
「あなたがたは恐れなくていいんだよ。
わたしは知っている、あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているこ
とを。
あの方は、ここにはおられない。言われていたとおり、あの方は復活させられ
たのだから。」
たしかにイエス様の遺体がありませんでした。
●走って行くふたり 
婦人達は、急いで墓を立ち去り、走り出しました。
今、目の前に起こっている出来事に恐れながら、それを上回る爆発的な喜び
に突き動かされて、弟子達の所に走って行くふたりです。
「イエス様が復活された!
イエス様はガリラヤに行っておられる。
ガリラヤでお目にかかれる。
早く弟子達に知らせなくては!」
 
●イエスに出会う
すると、見よ、走っているふたりの行く手に、イエス様が立たれたのです。
イエス様がふたりに言われました。
「おはよう」
「喜ぶ」という言葉から来ている言葉です。
ふたりはイエス様に抱きつきました。
「うれしい」
イエス様がふたりに言われました。
「恐れないで。
行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに
会うことになる。」
●番兵達
婦人達が復活のイエス様にお会いして、イエス様に抱きついてうれしい、うれ
しい、と喜んでいた時、もう一つのことが起こっていました。
急いで墓を立ち去り走っているもう一組の人達がいたのです。
番兵達です。
彼等は祭司長に知らせるために走って行ったのでした。
知らせる内容は同じ出来事です。
大きな地震が起こって、天使が天から降って墓の石をわきへ転がした。
墓の中のイエスの遺体がなくなっていた。
この知らせを聞いた祭司長達は番兵達にうそをつくように命じます。
「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と
言いなさい。」
それでこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている、と記されてい
ます。 
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●世の現実
これが、世の現実なのです。
今もそうです。
イエスが復活したなんて信じられない、そんなことはあり得ない、うそだ、弟子
達が作り上げた話だ、と、ほとんどの人達は思っています。
イエスの復活は、弟子達の心の中での出来事だ、と理解している人達がたくさ
んいます。
普通によくあることですが、亡くなった人が、自分の中に生きて居る、と感じます。
亡くなった人のことを覚えている限りその人は生きているのだ、という言い方も
します。
そういう意味で、イエス様の復活を理解し受け入れるのです。
 
この人達を、信仰のない人達だと非難したり、悪く思うのはよくありません。
そう考えるのは無理もないことです。
誰ひとり死んで生き返った人はいないのです。
死んでしまえばもうどうすることも出来ないのです。
私達自身だって、それを痛いほど知っているでしょう。
人はイエス様の復活を理解したり納得することは出来ません。
ですから「見よ」なのです。
イエス様の復活は、神様がなさった出来事です。
実際に起こった事実として受入れるしかないのです。
復活のイエス様がわたしの行く手に立ってくださいます。
「おはよう」と言ってくださいます。
こういうことによって、私達はイエス様の復活を信じることが出来るのです。
 
●出会ってくださる
復活のイエス様は弟子達に会ってくださいました。
弟子達は婦人達から天使の言葉を告げられました。
『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに
行かれる。そこでお目にかかれる。』
弟子達は、復活のイエス様が婦人達に言われた言葉を聞きました。
「 行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに
会うことになる。」
十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエス様が指示しておかれた山に登りま
した。
そして、復活のイエス様に会い、ひれ伏しました。
 
●疑う者
「しかし、疑う者もいた。」
と記されています。
複数形です。
 一人ではない、疑う者達が幾人もいたのです。
聖書は何と正直なのだろうか、と思います。
こんな事は書かずにすますこともできたでしょう。
書かないほうが、立派なお話になるのです。
でも聖書は「しかし、疑う者達がいた」と書いてしまうのです。
これが人間の真実な姿であるからです。
伝えられたイエス様の言葉に従い、山に登り、イエス様に会い、ひれ伏してい
るのに、なお疑う心が起こってくる、これが人間です。
 
●生き方
けれどもイエス様は、こういう人を「だめじゃないか」と責めることをなさいません。
こういう人を切り捨てることをなさいません。
かえって、そういう人にイエス様は近寄ってきてくださいます。
そして言われるのです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに
父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の
終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
生き方を教えてくださるのです。
 
●用いられる
イエス様は天と地のいっさいの権能を持っておられます。
イエス様は全能のお方です。
どんなことでもおできになるのです。
どんな頑なな心も動かすことがお出来になります。
「だから」なのです。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
すぐに疑いの心を起こす者達を用いられるのです。
 
●イエス様がしてくださる
イエス様は
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」
と言われます。
 
どうして、私達はすべての人々をイエス様の弟子にすることができるでしょうか。
私達には出来ません。
人の力や努力で出来る事ではないのです。
イエス様がしてくださいます。
イエス様はお出来になります。
 
私達が出来ることは、あの婦人達のように、恐れながらも大いに喜んで、
「イエス様が復活されました」と知らせに、走っていくことです。
『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と
言い広められている世に、知らせに行くのです。
 
●バプテスマ
イエス様が人の心を動かしてくださいます。
イエス様を信じてバプテスマを受け、イエス様に従って生きる人達を起こして
くださいます。
交読文で読みましたコリントの信徒への手紙二にはこう記されていました。
「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるも
のとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
 
私達は新しい命をいただいています。
イエス様は死んで復活されました。
キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたち
も新しい命に生きる者となるのです。
 
●共にいる 
イエス様は言われます。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
ギリシャ語では普通使われない代名詞「わたし」エゴ−が記され、「わたし」が
強調されています。
「終り」は完成するという意味です。
そして「いつも」は、原文では「すべての日々」と書かれています。
 
●結語
けさ、イエス様は私達に言われています。
「見よ、わたしはあなた方と一緒に居る、すべての日々を、世が完成するまで。」
 
イエス様、ありがとうございます。
私達は今、主イエス・キリストの復活の命の中で生きています。
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