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礼拝メッセージ 2016年1月3日
日本バプテスト同盟  運河キリスト教会  
牧師 山本美智子
マルコによる福音書 9章14節〜29節 「不信仰なわたしの信仰」
〈聖書(新共同訳)〉
9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取
り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15  群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17  群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りまし
た。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、
この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。
この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できま
せんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまで
わたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我
慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさ
  い。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、
  すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って
泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ね
になった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みまし
  た。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもでき
る。」
9:24  その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助
けください。」
9:25  イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りにな
った。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この
  子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子
  は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたした
ちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すこと
  をはできないのだ」と言われた。
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<メッセージ>
●新年
新しい年を迎えました。
時の区切りがあることは、よいことです。
気持を新たにして、先に向かって歩み出すことが出来ます。
誰もがこの1年、無事に平和に暮していけますようにと、願います。
そこで大勢の人達が初詣に神社に出かけます。
神社の神様に願うことは、無病息災、家内安全です。
そう願うのは、人の心の自然な動きです。
病気にならず、災いが起こらず、家族が安全に暮らせれば、平和に穏やかな
気持で1年を過ごすことが出来るでしょう。
 
私達もどんなに家族が元気で、無事に、問題が起こらず1年を過ごすことが
出来るようにと願っていることでしょうか。
私達も、無事に安全に平和に暮らせますようにと、主に祈ります。
イエスの言葉
けれども、今日新年礼拝で私達が聞くのは、イエス様の嘆きの言葉です。
「なんと信仰のない時代なのか。」
今日の聖書が告げる状況は、無病息災、家内安全とはかけはなれています。
病気の子供がいます。
幼い頃からずっと病気で、命の危険にさらされています。
この子を治したいと懸命になって苦しんでいる父親がいます。
病気を治せないイエス様の弟子達がいます。
その弟子達を責め議論をしている律法学者達がいます。
●状況によらない平安
ここに記されているのは私達が生きている現実です。
この現実の中で、なお平安でいられる、そういう平安をいただきたいです。
どんな状況でも平安でいられる、状況によって左右されない平安をいただいて、
新しい年を生きていきたいです。
●信仰のない時代
イエス様は
「なんと信仰のない時代なのか。」
と言われました。
この言葉は誰に対して言われているのでしょうか。
私達も「なんと信仰のない時代なのか。」とつぶやく時があります。
キリストを信じる人はごくわずかだ、
宗教アレルギーが起こっていて、はじめから拒絶する人達がいる、
世の中は神様を信じない人達の力によって動いている、
そこで
「なんと信仰のない時代なのか。」
と嘆くのです。
 
こう嘆く時、信仰を持っていない人達のことを言っています。 自分自身は信仰
のない人に入っていません。
自分は信仰を持っている、でも他の人達は・・・と、嘆くのです。
●弟子達を嘆く
けれどもイエス様は、弟子達のことを嘆いておられるのです。
子供の病気を癒すことが出来なかった弟子達の有様を嘆いておられるのです。
弟子達は誰よりもイエス様を信じている人達でしょう。
 
イエス様は12人の弟子達を2人ずつ組にして遣わされる時、汚れた霊に対す
る権能を弟子達に与えられました。
12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教しました。
そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしました。
6章に記されています。
にもかかわらず、この時弟子達は重い病気を引き起こしている霊を追い出す
ことが出来なかったのです。
この弟子達の有様をご覧になって、イエス様は「なんと信仰のない時代なの
 か。」と嘆かれるのです。
「 いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに
我慢しなければならないのか。」
と言われます。
イエス様はすでに弟子達に苦しみを受け、殺され、三日の後に復活することに
なっている、と教えておられました。
そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。
イエス様の姿が白く輝き、エリヤとモーセと、おそらく最期の時のことを話し合っ
ておられたその時に、事は起こっていたのです。
イエス様が弟子達と一緒に居られる時間はもう残り少ないのに。
●父親の言葉
「信仰のない」という言葉が、もう一カ所出てきます。
父親の言葉です。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
父親もある意味でイエス様を信じていたのです。
イエス様なら息子を癒してくださるに違いないと思って、イエス様のところに連
れてきたのでした。
ところがイエス様は不在でした。
そこで弟子達に病気の霊を追い出してくれるように頼んだのでした。
イエス様の弟子なのだから、きっと治してくれるに違いない。
弟子達も自分達で治せると思ったから引き受けたのです。
ところが出来なかったのです。
この事実に出会って、父親の気持が揺らいでいきます。
「きっと癒してくださるに違いない」
から
「おできになるなら、わたしたちを助けてください」
と変わったのです。
●信じる者には何でもできる
するとイエス様が言われました。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
父親の言葉を主語を、はっきり訳すと「しかし、もしもあなたがそのことを出来る
なら、あなたは助けてください、私たちを」
となります。
それに対してイエス様は「信じる者には何でもできる」と言われました。
信じれば、その人は何でもできるんだ、という意味ではありません。
今ここで問題になっているのは、イエス様が出来るか、ということです。
行なうのはイエス様です。
イエス様は
「信じる者に対しては、すべてができる」
と言われているのです。
信じます、ということは、イエス様はどんなことでもおできになると信じることな
のです。
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●不信仰な自分を知る
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
イエス様の言葉は、父親に衝撃を与えました。
「できれば」と言った自分。
ああ、何と信仰のない自分なのか。
父親はすぐに叫びます。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
彼は信じることができない自分であることをはっきりと知りました。
彼の言葉は、信じない自分を自分ではどうすることもできない、信仰のない自
分をまるごとイエス様に明け渡す言葉です。
 
●私たち
この父親は私たち自身です。
事柄は違っていても、それぞれに苦しみを抱えています。
その苦しみを何とか取り除きたい、抱えている問題に解決が与えられたいと、
ずっと願ってきたのでした。
色々な人に助けを求めました。
色々な手立ても講じてみました。
でも、背負っている問題に解決が得られない、苦しみが続くのです。
もうこのままなのか。
でもそれでは耐えられない。
探し探し求めて、ついにイエス様に辿り着きました。
でもイエス様はおられず、弟子達は自分の苦しみを取り除いてはくれなかった
のです。
これまで誰もわたしを助けられなかった、
どんな方法も効果がなかった。
ですから私たちも思うのです、「またか。」
半ばあきらめながら、イエス様に言うのです。
「おできになるなら、わたしを助けてください。」
 
●気付く
私たちは何とイエス様を信じていないことでしょうか。
そういう私たちにイエス様は言われるのです。
「信じる者には何でもできる。」
この言葉に、はっと気付きます、
イエス様を信じていると思っていたけれど、本当は信じていなかったんだ。
信仰のない自分がはっきり分かります。
 
●自分で信仰
それならどうしたらいいでしょうか。
わたしは信仰がないからだめなんだ、もっと信仰を強くしなければ、と頑張るで
しょうか。
でもいつか、頑張っても頑張っても目指す信仰の高みには到達できないことを
知るでしょう。
いつも自分はだめだ、自分の信仰はだめだと思い続け、自分を責めることにな
ります。
●イエスに放り出す
イエス様に「信じる者には何でもできる。」と言われた父親は、「信じます。です
からわたしを助けてください。」とは言わなかったのです。
言えなかったのです。
 
自分ではどうすることもできない信じきれない自分を、まるごと助けてください、
と言うほかにはなかったのです。
 
●イエスは受け入れてくださる
イエス様は、この父親を受入れてくださいました。
「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行
け。二度とこの子の中に入るな。」
イエス様は子供を癒してくださったのです。
イエス様が受入れてくださる信仰は、
「信じます。ですからわたしを助けてください。」ではなく
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
という信仰です。
 
●神に根ざす信仰
信仰のないわたしでしかありえない、その自分を神様にお任せするしかない、
それが信仰です。
わたしの信仰は、わたし自身に根ざすものではないのです。
わたしの信仰は、神様の中に根ざしているのです。
 
わたしに根ざした信仰であるならばいつも不安定です。
でも神様は揺れ動くことはありません。
揺れ動く自分にではなく、揺れ動かない神様に信仰の根を下ろした時、本当に
安心な心になります。
わたし自身は相変わらず揺れ動く心を持ちながら生きています。
けれどもわたしの信仰の確かさは神様にあるのですから、大丈夫なのです。
相変わらず揺れ動く自分ですが、なお神様の確かさに自分の信仰を置いていく
のです。 
 
自分の信仰は、自分の信仰は、と自分を見つめることがなくなります。
神様の確かさの中で、ありのままの自分でいられるようになります。
 
●弟子達
イエス様の弟子達も、やがて「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
という告白に導かれていきます。
 
この時はまだ弟子達は分かっていません。
自分達はイエス様を信じている。
自分達はイエス様の弟子だ。
イエス様から汚れた霊を追い出す権能を授けられている。
自分達はこの子を癒すことができると思っています。
ですから「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と言う
のです。
 
イエス様は
「祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」
と言われました。
 
やがて弟子達は、自分がどんなに信仰のない者であるかを知ります。
イエス様が十字架にかかられた時、弟子達は皆、イエス様を見捨てて逃げ出
したのでした。
イエス様を信じていると思っていた自分が、何者であるかを知ったのでした。
 
その弟子達に復活のイエス様が会ってくださいました。
もう一度弟子として立たせてくださいました。
もう自分は信仰があるということはできません。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
と言うのです。
 
●結語
信仰のないわたしを、それでも救ってくださるイエス様です。
イエス様は信仰のないわたしを救うために、十字架に死なれなければならな
かったのです。
 
主イエス・キリストは信仰のないわたしを救ってくださっています。
ここにまことの平安があります。
苦しい出来事が襲ってきても、心が不信仰の荒波にもまれても、この平安は
失われることはありません。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
と祈り続けながら、この1年を歩んでいきましょう。
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