<メッセージ> |
●終わったところから始まる |
今日のイエス様の出来事は、何もかもが終わってしまったところから始まりま |
す。 |
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もう終わってしまったのです。 |
少女は死んでしまいました。 |
もうどうすることも出来ない。 |
呆然と立ちすくむ。 |
絶望。 |
このところから、イエス様の出来事は始まるのです。 |
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●会堂長 |
会堂長の一人でヤイロという名の人がイエス様のもとに来てしきりに願いまし |
た。 |
「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやって |
ください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 |
23節に記されています。 |
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会堂というのは、ユダヤ人達の集会の場所です。 |
安息日には礼拝が行われ、ほどんどすべてのユダヤ人達が会堂に集まります。 |
会堂は、子供たちに律法を教える学校でもあり、裁判所としても使われてい ま |
した。 |
教会と学校と裁判所が1つになっている場所ですから、ずいぶん立派なもの |
だったでしょう。 |
町の中心となる場所でした。 |
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会堂長は、その会堂の長です。 礼拝をつかさどり、会堂を管理する務めに |
ついていました。 |
高い地位にあり、立派な信仰を持っている。 |
多くの人達に知られ、尊敬されている身分の高い人でした。 |
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彼の人生は順調でした。 |
女の子が生れ、健やかに成長し12歳になっていました。 |
当時は12歳といえば、大人になって婚約ができる年齢です。 |
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ところがその娘が病気になってしまったのです。 |
地位もお金もあるヤイロですから、名医といわれるお医者さんをさがして、 |
治療してもらったことでしょう。 |
この薬が効くと聞けば、高いお金を払ってでもその薬を娘に飲ませたでしょう。 |
ありとあらゆる手を尽くしたのです。 |
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けれども病気は悪くなっていきました。 |
死にそうな状態になって、ヤイロは矢も楯もたまらずイエス様のもとに救いを |
求めに行くのです。 |
「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、 |
生きるでしょう。」 |
イエス様に一縷の望みを託したのでした。 |
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けれど彼の努力はすべて無駄に終わりました。 |
娘は死んでしまったのです。 |
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●人々 |
こういう事態になってしまった時、人はどうするでしょうか。 |
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ここの箇所に出てくる人々がしていることは、誰もがすることです。 |
私達自身がすることです。 |
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イエス様に必死になって娘を助けてください、と頼むのは、まだ助かる可能性 |
が残っているからです。 |
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どんなに死にそうな状態であっても、息がある限り助かる望みを持つのです。 |
イエス様なら助けてくださる。 |
医学的に見て絶望であっても、イエス様なら癒すことがお出来になる、これが |
ヤイロの信仰です。 |
多くの人達が、神と呼ばれるものに病気の癒やしを祈願するのは、このヤイロ |
の信仰と同じ種類の信仰を持っているからです。 |
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しかしヤイロの信仰は破れ果てました。 |
子供が死んでしまった。 |
この期に及んでは、イエス様でもどうすることも出来ない。 |
だれもが思うことです。 |
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会堂長の家から来た人々が言いました。 |
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 |
もうイエス様は役に立たない。 |
イエス様でもどうすることも出来ない、 |
来てもらっても仕方がない、と言っているのです。 |
恐れていた事態が現実となって、頭の中がまっ白になってしまっている父親に |
対し、人々は |
「なぜこの上あなたは先生を煩わすのか」と言うのです。 |
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私達はこの人達と同じ考えを持っています。 |
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会堂長の家では、人々が集まって嘆き悲しんでいました。 |
若い人の死は本当につらいです。 |
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そこにイエス様が来られたのです。 |
イエス様は人々に言われました。 |
「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 |
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「人々はイエスをあざ笑った。」 |
と記されています。 |
子供は死んだのです。 |
眠っているのではないのです。 |
これがここで起こっている事実です。 |
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私達もイエス様の言葉をあざ笑います。 |
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これが私達が思うことです。 |
私達がすることです。 |
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ここに登場している人達だけが特別だったのではありません。 |
人の死に出会った時、誰もが同じようにするのです。 |
同じことを考えるのです。 |
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懸命な看病も、熱い祈りもむなしかった。 |
もうどうすることも出来ない。 |
全ては終わってしまった、と思います。 |
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●イエスの業が始まる |
その全てが終わってしまったところから、イエス様の業が始まるのです。 |
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「お嬢さんは亡くなりました」 |
終わりを告げる言葉をイエス様は否定されます。 |
「恐れることはない。ただ信じなさい」 |
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36節には |
「イエスはその話をそばで聞いて、」 |
と訳されていますが、この言葉には「聞き流す」「心にとめない」という意味も |
あります。 |
口語訳の聖書では |
「イエスはその話している言葉を聞き流して」 |
と訳しています。 |
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イエス様は「お嬢さんは亡くなりました」という言葉を聞いて、 |
「そうか。間に合わなかったか。残念だった。もうどうすることも出来ない」 |
と言われなかったのです。 |
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「恐れるな。ただ信ぜよ」 |
と言われました。 |
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●イエスが先立つ |
でも、どうして恐れずにいられましょうか。 |
どうして信じることが出来ましょうか。 |
この先は、人は一歩も進めません。 |
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イエス様が引っ張っていかれるのです。 |
終わりが来るまでは、ヤイロがイエス様を引っ張っていたのです。 |
早く、早く、と心せかせ、走るようにしてイエス様の先を行っていたのでした。 |
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でも終わってしまった今は、もう一歩も歩けません。 |
そこにうずくまるのです。 |
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そのヤイロを引きずるようにして、イエス様は行かれます。 |
少女を起こすために行かれます。 |
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そしてイエス様は子供の手を取って言われます |
「タリタ、クム」。 |
「少女よ、起きなさい」 |
少女はすぐに起き上がって、歩きだしました。 |
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●人々の驚き |
「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」 |
人とあります。 |
人々とありますが、ここにいたのはお父さんとお母さんと3人の弟子達です。 |
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お父さんはイエス様に「恐れるな。ただ信じなさい。」と言われて、イエス様の |
後について、家に帰った人です。 |
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弟子達は何もかも捨ててイエス様に従った人達です。 |
最も近くで、イエス様の話を聞き、なさることを見てきた人達です。 |
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この人達が本当にイエス様のことをわかっていたら、イエス様はどんなことで |
もお出来になると信じていたら、少女が起き上がったのを見て、我を忘れるほ |
ど驚くことはなかったでしょう。 |
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でもその出来事は、彼らの信仰をはるかに超えていたのです。 |
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●イエスがされる |
これはイエス様がなさったことです。 |
彼らが信じたからそうなったのではありません。 |
十字架に死に復活されるイエス様だから、お出来になったことです。 |
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この出来事の中に、既にイエス様の復活の出来事が現われています。 |
でもこの時、人々は何もわかっていませんでした。 |
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●私達にも起こる |
これがあの日起こった事です。 |
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そしてこれは、私達一人一人に起こる出来事です。 |
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私達も全てが終わってしまった、もうどうすることも出来ない、という状況に陥り |
ます。 |
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その時なお、神様に期待を持ち続けることが出来るでしょうか。 |
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まだ何とかなる状況にある時に持っている信仰は、その可能性の中で神様が |
事をなしてくださるという、信仰です。 |
しかしその信仰は破れます。 |
人間の考える可能性の中で信じる信仰は破れます。 |
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けれどもイエス様は全てが終わってしまったところから始められるのです。 |
そこには人間のいかなる業も入り込む余地がありません。 |
信仰さえ入り込む余地がありません。 |
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●「信じなさい」 |
私達はただただ恐怖に取りつかれているのです。 |
そういう私達ですからイエス様は言われるのです。 |
「恐れることはない。」 |
「恐れなくていいんだよ。」 |
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「ただ信じなさい。」 |
信じなさいと言われても信じられない私達です。 |
それでもイエス様は私達を引きずるようにして、歩いてくださいます。 |
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私達は「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉を聞き続けながら、 |
イエス様に引っ張っていただいて生きていくのです。 |
そしてついにイエス様の復活の命に辿り着くのです。 |
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●「タリタ・クム」 |
イエス様は少女に「タリタ・クム」「少女よ、起きなさい。」と言われました。 |
私達にも、イエス様が「起きなさい」と言ってくださいます。 |
その時が来ます。 |
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「起きる」と訳されているエゲイローというギリシャ語は、「起き上がる、立つ」と |
いう意味の言葉ですが、もう一つ「復活する」という意味があります。 |
イエス様が十字架に死なれて3日目、墓に行った女性達に、天の使いが言い |
ます。 |
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜して |
いるが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 |
「復活なさって」はエゲイローが使われています。 |
また、コリントの信徒への手紙一の15章には復活について書かれていて、 |
「復活」という言葉がたくさん出てきますが、全部エゲイローです。 |
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イエス様は言われます。 |
「タリタ・クム」「少女よ、起きなさい」 |
その時復活の出来事が起こるのです。 |
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「タリタ・クム」はアラム語です。 |
聖書は旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、 |
そのどちらでもありません。 |
アラム語はイエス様が使っておられた言葉なのです。 |
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実際にイエス様は「タリタ・クム」と言われたのです。 |
その言葉のままに聖書は書き残しました。 |
大切な大切な言葉だからです。 |
「タリタ・クム」 |
イエス様のお声そのものです。 |
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●結語 |
私達もいつかイエス様の声を聞きます。 |
「タリタ・クム」 |
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その時、私達は起きます。 |
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復活の主が、私達を目覚めさせてくださいます。 |
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